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暮坪の立岩・塩俵岩
くれつぼのたていわ・しおだいらいわ
山形県温海(あつみ)町立岩
 立岩は海岸近くに直立する高さ150m余りの巨岩で、頂上に松があります。塩俵岩は割れ目が斜めに作用したもので俵を何百も積み重ねたように見えます。
 ここはマルバシャリンバイの自生地で昭和31年県の天然記念物に指定されました。マルバシャリンバイはバラ科に属する暖地性の常緑低木で、日本中部以南の海岸に自生するものですが、日本海海岸では暮坪の立岩がその北限となっています。花は白く五弁で梅の花によく似ています。


鶴岡市鯨ヶ崎海岸



鶴岡公園
つるおかこうえん
山形県鶴岡市馬場町4
Tel 0235-25-2111
 鶴岡は古くは大宝寺といわれ、鎌倉時代武藤氏が築いた大宝寺城を中心とした城下町でした。慶長6年(1601)最上義光が鶴ガ岡城と改め城下も鶴岡として整備しました。
 元和8年(1622)最上氏改易後は信州松代から酒井忠勝が入封し、庄内13万8千石で11代忠篤まで約200年間続きました。当時の濠や石垣が今も残り、藩政時代を偲ばせます。約5千本の桜があり日本さくら名所百選にも選ばれています。



鶴岡カトリック教会天主堂
つるおかかとりっくきょうかいてんしゅどう
山形県鶴岡市馬場町7−19
Tel 0235-22-0292
 明治36年(1903)、旧庄内藩家老の末松家の屋敷あとにフランス人ダリベル神父の全財産と寄付により建てられました。入り口の門は当時の武家屋敷の面影を残しています。
 明治ロマネスク建築の傑作で国の重要文化財に指定されています。設計した人は、フランス人神父のパピノ神父です。佐渡の両津教会や明治村に移築された京都の旧聖ザビエル教会など日本の教会堂を数多く手がけました。
 聖堂の左側にある副祭壇には、世界でも珍しい「黒い聖母マリア像」があります。この天主堂ができた記念にフランスのデリヴランド修道院から贈られたものだそうです。



致道博物館
ちどうはくぶつかん
山形県鶴岡市家中新町10−18
Tel 0235-22-1199


 致道博物館は鶴岡公園の西隣にあり、鶴岡の歴史や文化を知る上で欠かせない所です。重要文化財の旧西田川郡役所、多層民家、書院造りの庭園、民具の蔵などがあります。
 昔は御隠殿とか西御殿などと呼ばれていた庄内藩主酒井氏の御用屋敷で昭和25年(1950)博物館として開放されました。庄内藩の生徒の通用門であった東御門(ひがしごもん)があります。
 ルネッサンス風の造りの旧西田川郡役所が華麗な姿を出しています。明治14年(1881)の竣工で明治期の洋風郡役所の典型的遺構として貴重です。
 外観は簡素ですが均斉の取れた意匠です。中には考古学資料、明治文化資料などの展示がされています。昭和44年(1969)国の重要文化財に指定されています。
 民具の蔵では伝統工芸品などが展示されています。他にも旧鶴岡警察署庁舎、朝日村から移築した多層民家の旧渋谷家住宅、維新前の庄内藩酒井家の御隠殿などが立ち並んでいます。



出羽三山神社
でわさんざんじんじゃ
山形県鶴岡市羽黒町手向手向7
Tel 0235-62-2355
 出羽三山神社は月山頂上の月山神社、羽黒山頂上の出羽神社、湯殿山中腹の湯殿山神社の3つを合わせ通称で「出羽三山神社」といっています。月山神社と湯殿山神社は、羽黒山の出羽神社に合祭し、恒例の祭典は「三神合祭殿」で行われます。
 開山は、推古元年(593)崇峻天皇の御子の蜂子(はちこの)皇子と伝えられています。崇峻天皇が蘇我氏に害された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入り、そこで、三本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて三山の神を祀ったそうです。
 出羽三山の中でも羽黒山は山伏修行の中心的な山で修験霊場として有名です。羽黒山は、中世には別当寺大宝寺が鶴岡に城を構え、衆徒5千を擁したといわれています。高野山や比叡山をしのぐ修験道の東国33ヶ国の総本山でした。
 「行の山」「浄めの山」として古くから羽黒派古修験道の総本山、出羽三山は10大寺、8堂伽藍、寺領は6万6千貫で住坊8千余りの巨大な山岳寺院でした。永い歴史と伝統を持つ出羽三山信仰は他に例を見ない「多様にして限りなく深い信仰世界」を育て上げました。
 出羽三山は神仏習合時代は真言宗を中心に8宗兼学の山となり、江戸時代に入って天台宗に改め、明治維新後は神仏分離して古への神奈備山に帰りました。
 約2kmの登拝参道には、多くの摂社末社が鎮座しています。両側には巨杉が林立、森厳さに人を誘うようです。出羽三山神社は山伏修行の聖地で現在も多くの修験者、参拝者を集めています。

 羽黒山随神門は表参道の入口にあります。随神門より内は出羽三山神社の神域となります。神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がります。随神門はこの広い神域の表玄関なのです。この門は初め仁王門として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されました。明治に入り随神像を祭り、随神門となりました。
羽黒山随神門
 境内には天拜石と呼ばれる石があります。そのむかし、この奇石を通じ天を祭ったものだったようです。修験者の行法を行った場所の石だと思われています。
天拜石
 康平4年(1061)9月、源頼義は出羽の清原武則の支援により、阿部貞任・宗任を衣川・鳥海・厨川柵で破り前九年の役を平定しました。その1ヶ月前に阿部宗任が庄内に乱入しています。羽黒山宗徒がこれを防ぎ3500人が討死したといわれています。
 随神門をくぐり抜け、継子坂を下りきると祓川(はらいがわ)にかけられた赤い橋があります。これが「神橋」です。昔、出羽三山を登拝する全ての人がこの川で身を清めたそうです。
神橋
 神橋を渡ると左側に境内社・下居社があります。右手には須賀滝が流れ落ち、その下に祓川神社、岩戸分神社、不動明王が祀られています。須賀の滝の水は祓川に岸壁伝いに豪快に流れ落ちています。江戸時代初期、当時の羽黒山別当が月山から8kmにわたって水を引き、それが流れ落ちているといわれています。
須賀の滝
 須賀の滝は、昔は不動の滝と呼ばれていたそうです。この手前の祓川で出羽三山神社神職養成所では、冬の雪解け水の祓川に浸かり禊(みそ)ぎを行っているそうです。ふんどしで祓川へ入り心身を清めるのです。
祓い川神社
 注連掛桜(しめかけざくら)という桜の木があります。昔、出羽三山を参拝する人が祓川で禊ぎをした時、この桜の木の枝に注連(しめ)を掛けたことからこの名があるそうです。注連とは紙や麻で作った肩に掛けるもので清浄さを示しているそうです。
注連掛桜
 国宝「羽黒山五重塔」のそばに天然記念物に指定されている巨杉「爺杉」(じじすぎ)があります。樹齢は千年以上といわれ、樹高42m、樹の周囲10mもあります。すでに枯死した「婆杉」(ばばすぎ)とともに羽黒山中の最大木として古くから有名でした。「羽黒山の爺スギ」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。
爺杉
 羽黒山のスギ並木は昭和30年(1955)に特別天然記念物に指定されました。山麓の随神門から羽黒山頂まで、約2kmの参道の両側に茂っています。樹齢300年から600年の巨杉が壮観です。昭和61年(1986)には、「羽黒山参道の杉並木」が、森林浴の森100選に選ばれました。
スギ並木

羽黒山五重塔
 羽黒山参道「一の坂」登り口の杉並木の中に昭和41年(1966)に国宝に指定された「羽黒山五重塔」がひっそりと建っています。神社の境内にあるため、「五重塔」という名称は通称で、正確には「千憑(より)社」という出羽神社の末社で、大国主命を祭神として祀っている神社なのです。
羽黒山五重塔
 この塔は承平年間(931-937)に平将門が建立したと伝えられています。文中元年(1372)に長慶天皇の時代、庄内の領主で羽黒山別当であった武藤政氏が再建したようです。古くは瀧水寺の五重塔といわれ、付近に多くの寺院があったようですが、今は五重塔だけが残っています。慶長13年(1608)、出羽守であった最上義光(よしあき)が修造しています。四方の額は小野道風書と伝えられています。
羽黒山五重塔
 高さは29mの羽黒山五重塔は東北では最古の塔です。各層方3間5層、素木(しらき)造り、柿葺(こけらぶ)きの優美な塔です。正面は板唐戸で側面は連子窓となっています。初重に縁を設け、各重とも組み物は三手先、軒は二軒の構成です。柱頭柱間に間斗束(けんとずか)、腰長押(こしなげし)の下に束(つか)をたてるなど、古式の技法を伝えています。
羽黒山五重塔
 明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は神社となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されました。五重塔のみが取り壊されずに残されました。江戸時代は五重塔の周囲には多くの建造物があったそうです。
羽黒山五重塔


出羽三山神社三神合祭殿
でわさんざんじんじゃさんじんごうさいでん
 羽黒山は羽黒派山伏の拠点地として繁栄してきました。崇峻天皇の子、蜂子皇子が3本足の霊鳥に導かれて羽黒山に登拝し、山頂に祠を祭ったのが始まりです。神仏習合時代を忍ばせる建築物や石碑など数多く残されています。
三神合祭殿
 出羽三山神社三神合祭殿は出羽三山の三神を祭る豪壮な建物です。神仏分離令が発令後に改称された出羽神社は月山と湯殿山が冬季間豪雪の為、司祭や参拝が困難なことから出羽神社の本殿で合祭することにしました。現在は三神合祭殿となっています。
三神合祭殿
 各々の祭神は出羽神社が伊氏波神(いではのかみ)、月山神社が月読神(つきよみのかみ)、湯殿山神社が大山祗神(おおやまづみのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っています。
三神合祭殿
 本殿はたび重なる火災に見舞われましたが、現在の社殿は文化元年(1818)に再建されたものです。入母屋、茅葺きの権現造りです。桁行13間2尺(24.2m)、梁間9間2尺4寸(17m)、高さは2丈3尺(28m)、厚さ約2、1mもあります。
三神合祭殿
 平安時代中期になると神仏習合により真言宗に奉仕するようになり、江戸時代初期、中興の祖といわれる第50代執行別当天宥によって天台宗に改宗されました。羽黒山参道の石段や杉並木の植林、山麓の田畑への引水などは、天宥の代になされた偉業です。
三神合祭殿
 三神合祭殿は羽黒派古修験道独特な建築様式から合祭殿造りなどともいわれます。内々陣は17年毎の式年造営が続けられ伝統と技術が古来から継承されています。向拝には様々な彫刻が施されています。茅葺の建物としては正法寺(岩手県奥州市水沢区)に次ぐ規模を持っていて「東三十三ヶ国総鎮護」として威厳と信仰の厚さを感じます。
三神合祭殿
 昭和45〜47年(1970-1972)にかけて、開山1380年祈念奉賛事業が催されました。その中の一環として漆塗替修復工事が行われ、きれいに塗られました。また、平成12年(2000)には国の重要文化財に指定されました。
三神合祭殿

 鐘楼は元和4年(1618)山形城主最上源五郎家信が再建寄進したものです。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物です。鐘楼堂は平成12年(2000)に国指定重要文化財に指定されています。鐘は建治元年の銘があり、東大寺・金剛峰寺に次いで古く、また、大きさもかなり大きなもので、「建治の大鐘」と呼ばれています。総高285、5cm、口径168cmで中世以前の鐘では東大寺鐘に次ぐもので東北地方では最大最古のものです。鐘も国の重要文化財に指定されています。
羽黒山鐘楼

 三神合祭殿前の鏡池は、本来の御神体といわれ、神秘の御池として古来より多くの信仰を集め、羽黒信仰の中心でもありました。周囲90mの神池であり、御手洗池(みたらしのいけ)と呼ばれましたが、古鏡が埋められていたことから鏡池といわれます。
鏡池
 昭和6年、鏡池からは、平安時代の鏡91面、鎌倉時代のもの56面など190面の鏡が多数発掘され、それ以前に見つかった物を合わせると500面ものが見つかりました。重要文化財にも指定され、出羽三山歴史博物館に収蔵されています。
鏡池

 出羽三山は蜂子皇子が推古元年に海路この地にいたり、羽黒山で修行したのち西暦593年(飛鳥時代)に月山、湯殿山を開いたと伝えられています。開祖の蜂子皇子を祀る蜂子社も山頂にあります。
蜂子社

 出羽三山は先祖の霊魂を祀る山としても信仰を集め、現在も祖霊の鎮魂を求めて来山する人々が多く訪れます。先祖供養する霊祭殿は昭和58年(1983)に再建されたものです。
霊祭殿
 霊祭殿は合祭殿に向かって右側にあります。三神合祭殿をお参りのあと先祖の御霊を供養する習わしがありました。その供養をするところです。社殿前に常香炉があったり、先祖供養するという点で神仏混合の名残りが感じられます。
霊祭殿

 東照宮は権現造り、銅板葺きの建物です。拝殿の外壁を朱色に塗り上げ、木口を金色にするなど格式の高さを感じます。正保2年(1645)、羽黒山中興の祖50代別当天宥が、将軍に願い出て羽黒山に勧請しました。最初は仮殿に安置し、同年5月、初代鶴岡藩主酒井忠勝が社殿を寄進しました。
羽黒山東照宮
 代々藩主の崇敬は厚く、慶安2年(1649)には2代藩主酒井忠当が参拝しています。また万治3年(1660)と寛文4年(1664)には3代藩主忠義が参拝しています。その際には300人ものお供がいたと伝えられています。
羽黒山東照宮
 酒井氏は徳川四天王の一人忠次の系統です。忠勝は忠次の孫にあたります。元和(げんな)八年(1622)出羽鶴岡に移封され、13万8千石を領しました。
 毎年7月15日に「花まつり」が行われます。三山神社の例大祭で各神社の神輿の渡御が始まります。この神輿の前に稲の花をかたどった造花の献灯がつきます。
 3基の神輿が神池を一巡すると、境内に集まった参拝客が五穀豊穣と家内安全の効験あらたかとされる献灯を奪い合うのです。
 8月31日の夜は八朔(はちそう)まつりがあります。山伏たちによって点火された護摩が、羽黒山頂に赤々と燃えさかり、多くの見物人で賑わうそうです。
 12月31日の夜は松例祭(しょうれいさい)が催されます。つつがむしという1333束の草束と綱でつくられた大松明(たいまつ)が神事のあと、細かく切られてまかれます。
 これが災難除けになるといわれ、それを奪い合う参拝客で雑踏するのだそうです。古式で執り行い、修験の本場羽黒山にふさわしい祭事であるようです。



玉川寺
ぎょくせんじ
山形県鶴岡市羽黒町玉川35
Tel 0235-62-2746
 国見山玉川寺は建長3年(1251)、道元の高弟である了然法明禅師によって開かれました。朝鮮百済国の生まれで中国の経山寺で修行し、日本に渡来し、この地で禅を広めたということです。
 境内地は1万平方mで堂宇は本堂、庫裏、山門、位牌堂、観音堂、開山堂、森堂などがあります。ここには全国的にも珍しい九輪草(くりんそう)の純群落があることなどから、「花の寺」とも呼ばれています。
 玉川寺は鎌倉時代開山の曹洞宗東北最古のお寺で日本屈指の歴史を誇っています。国の名勝である玉川寺の庭は、本堂、庫裡の東側に位置する池泉回遊式蓬莱庭園です。
 自然の山から流れ落ちる滝を配し、南北に長い瓢箪形の池泉には、鶴、亀をかたどった石組があり、3つの中島は、それぞれが橋でつながれています。対岸に渡す舟泊まり石に、舟泊まりを重ねて、理想郷蓬莱山へ向かう光景としています。



あさひ月山湖展望広場
あさひがっさんこてんぼうひろば
山形県鶴岡市上名川
 梵字川に建設された月山ダムでできた湖「あさひ月山湖」が誕生しました。平成13年(2001)竣工されたばかりです。花見のできる多目的広場やダム湖を一望できる展望広場などがあり、水辺と親しむ憩いの場となっています。
 月山湖展望広場に、「月の女神」という女性像があります。三日月の上に美しい女性が立つ大きなブロンズ像です。作者は、鶴岡市出身の彫刻家加藤豊氏です。



湯殿山神社
ゆどのさんじんじゃ
山形県鶴岡市田麦俣六十里山7
Tel 0235-54-6133
 湯殿山神社は標高1504mの湯殿山の中腹にあります。月山・羽黒山とともに出羽三山といわれています。羽黒山に月山神社と出羽神社を併せた出羽三山神社があり三神合祭殿に湯殿山神社の祭神も祀られています。この湯殿山での御神体は巨岩とそこからわき出る霊湯です。
 出羽三山は第32代崇峻天皇の御子の蜂子(はちのこ)皇子の開山です。皇子は蘇我氏からの難を避け、京都の由良から出羽国の由良に入られ、3本足の霊鳥に導かれて羽黒山に入りました。
 難行苦行の末、羽黒山上に羽黒権現の御示現を拝しました。次いで、月山、湯殿山を開き、両神を羽黒山に勧請して羽黒三所大権現と称されました。
 その後、加賀白山を開いた泰澄上人、修験道の祖といわれる役の行者、真言宗の開祖弘法大師、天台宗の開祖伝教大師、その弟子の慈覚大師らが来山して修行したと伝えられています。
 湯殿山は推古13年(605)の開山とされ、出羽三山の総奥の院として特に厚い信仰を集めてきました。「三関三度」「擬死再生」など出羽三山信仰は生まれ変わりの信仰が今もなお息づいています。
 羽黒山で現世利益の御神徳に与り、月山の大神の下で死後の体験をして、慈悲深い湯殿の大神より新しい生命をもらって再生すると考えられているのです。大山祇命(おおやまずみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っていて、羽黒山、月山で修行した修験者が、最後に仏の境地に達するのが湯殿山であるとされています。
 ここは修行を積んだ修験者が生きながら仏の境地に入る聖地とされています。 社殿はなく、 巨岩とそこからわき出る霊湯がご神体なのです。 「語るなかれ、 聞くなかれ」 と戒められています。
 参拝に際しては、履き物を脱ぎ、お祓いを受け、お詣りします。裸足で階段を下りていくと茶褐色の巨大な岩があり、ここでもお祓いをします。湧き出る霊湯流れる中、岩の上まで登りました。御神体の中にいる感じでした。
 松尾芭蕉も「語られぬ湯殿山にぬらす袂(たもと)かな」の句を残しています。自然崇拝の原型を今に残していて、厳しい戒律は現在にも伝えられ、崇高な気持ちにさせられました。



寒河江ダム
さがえだむ
山形県西村山郡西川町砂子関
 鶴岡市から山形市に抜ける「月山新道」と呼ばれる国道112号線沿いに寒河江(さがえ)ダムがあります。ここの噴水は高さ112mまであがり日本で4番目に高い噴水だそうです。
 月山湖は梵字川に建設されたダムで造られた湖です。土や岩をつみあげて作ったロックフィルダムと呼ばれる造りです。昭和47年(1872)から19年かけ平成2年(1990)に完成しました。
 ダムの高さ112mで全国で36番目だそうです。総貯水容量109000000立方mあるそうです。湖底には二つ崖・四ツ谷など112戸が沈んだそうです。



上杉家廟所
うえすぎけびょうしょ
山形県米沢市御廟1−5−30
Tel 0238-23-3115
 法音寺に隣接する上杉氏歴代の廟所で、墓域は東西105m、南北173mあるそうです。まわりには樹齢300年を超す、杉の巨木が鬱蒼としています。
 元和9年(1623)3月20日上杉景勝逝去の折り、廟所として造られ、謙信から12代斉定まで埋葬されています。各廟には石造の五輪塔が安置されています。
 藩祖上杉謙信の廟は中央のやや奥まったところにあります。これは米沢城本丸東南隅の祠堂にあったものを明治9年(1876)移したものだそうです。
 上杉謙信の廟を中心に、左右交互に上杉家代々の御遺骸、御遺骨を納めた廟が立ち並んでいます。廟屋の造りは、時代によって違いがあるものの上杉家の家風を受け継いだ質朴なものです。
 上杉謙信の遺骸は甲冑をつけてかめに納められているということです。
 昭和58年江戸時代の大名墓所の代表として国の史跡に指定されました。



松岬公園
まつがさきこうえん
山形県米沢市丸の内1−1
Tel 0238-22-3189
 松岬公園は舞鶴城、松岬城と呼ばれた米沢藩主上杉氏の居城跡です。城は明治6年(1873)廃城になり翌年から公園として開放されています。堀と石垣を残していて桜の名所にもなっています。
 城が築かれたのは、鎌倉時代に奥州征伐の軍功によって大江時広が長井庄の地頭として来た暦仁元年(1238)の事でした。松岬城といわれました。姓を長井と改めた大江氏は、その後8代広房まで続きますが天授6年(1380)伊達宗遠(むねとう)に滅ぼされ伊達氏のものとなりました。
 伊達氏は10代、212年、この城を統治しました。16代晴宗の時には米沢城と呼ばれていた事が記録に残っています。天正19年(1591)、17代政宗の時、豊臣秀吉の命で本拠を岩出山城(宮城県)に移しました。
 秀吉の武将蒲生氏郷が3万8千石で入封。7年後の慶長3年(1598)会津120万石の上杉景勝の統治となりました。関が原の合戦の翌年、豊臣方に組みした為、徳川家康は上杉景勝を米沢福島30万石に減封しました。景勝は会津から将兵6000余騎を引き連れ、本拠を直江山城守の城のある米沢に移したのでした。
上杉謙信像
 景勝は慶長13年(1608)、城の修理と拡張をし18年に完成させています。蒲生郷安の時は近江国松ヶ崎の出身だった事から、城は「松ヶ崎城」と呼ばれていましたが景勝から「舞鶴城」と改められました。天守閣のない質素な城でした。
 「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
 この名言は米沢藩中興の名君と仰がれる「上杉鷹山」(上杉氏10代)の言葉です。殖産興業に努力して藩運を挽回し、天明の大飢饉にも領内からは一人の餓死者も出さなかったそうです。
上杉鷹山像
 「舞鶴城」は明治2年(1869)に14代茂憲が版籍奉還するまでの272年間、上杉家歴代の居城となり、明治6年(1873)には取り壊されました。その後、城址には神社が建てられました。
 公園内には上杉記念館、米沢市上杉博物館、上杉神社、稽照殿(けいしょうでん)などが建ち並んでいます。
 上杉謙信は天正6年(1578)3月13日、越後の春日山城内で49年の生涯を閉じました。大乗寺良海を導師として荘厳な葬儀が営まれ、遺骸は甲冑を着せかめに納めて密閉して葬ったそうです。移封により会津若松城へ、さらにここ米沢城に移されたのです。
謙信公祠堂跡
 招魂碑は慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争で新潟方面で西軍と戦った米沢藩士280名と、明治10年(1877)の西南戦争の戦死者52名を慰霊するために建てられました。
招魂碑



上杉記念館
うえすぎきねんかん
山形県米沢市丸の内1丁目3ー60
Tel 0238-21-5121
 上杉記念館は松岬公園の南側の二の丸跡にあり、旧上杉伯爵邸だった建物です。明治29年(1896)、最後の米沢藩主14代上杉茂憲(もちのり)伯爵の本宅として造営されました。敷地は約5千坪、建坪は530坪と壮大な大邸宅でした。
 鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれ、建設には当時のお金で4万円近くの巨費をかけました。大正8年(1919)5月19日の大火で類焼し灰燼に帰しました。茂憲はその1ヵ月前に亡くなっていました。
 伯爵を継いだ上杉憲章は、大正13年(1924)に再建しました。建坪は285坪と焼失前の約半分です。庭園は東京の浜離宮庭園を模して造園したようです。
 第2次大戦後は進駐軍の宿舎に使用され、昭和25年(1950)に接収が解除後、米沢市が上杉家より譲り受けたそうです。



米沢市上杉博物館
よねざわうえすぎはくぶつかん
山形県米沢市丸の内1−2−1
Tel 0238-26-8001
 米沢市上杉博物館と県立の「置賜文化ホール」が一緒になって「伝国の杜」となっています。この名は米沢藩九代藩主上杉鷹山が残した「伝国之辞」に由来しています。
 米沢市上杉博物館には、数千に及ぶ上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されています。常設展示室では上杉の歴史と文化を中心とした「江戸時代の置賜・米沢」を紹介しています。



上杉神社
うえすぎじんじゃ
山形県米沢市丸の内1−4−13
Tel 0238-22-3189
 上杉神社は松岬公園内にある上杉謙信公を祀る神社です。上杉家は藤原高藤の流れをくむ鎌倉以来の名家です。慶長年間に上杉景勝は米沢城内に不識庵を建立しました。そこを謙信の廟堂としたのが始まりです。
 明治4年(1871)、治憲を併祀して社殿を改修して不識庵から上杉神社に改めました。米沢藩の藩祖として崇敬されている上杉謙信公を祭神としています。
 
 大正8年(1919)の米沢大火で焼失しましたが、米沢出身の建築家、伊藤忠太博士の設計で再建されました。明治神宮、出雲大社、靖国神社を設計監督した人です。
 大正9年(1920)から再建を始め、大正12年(1923)4月に完成しました。その総工費は46万5500円余の大工事でした。同じ年の米沢市の予算は31万円余りだったそうです。 
 社地は老松や古杉が茂る松岬公園の中央部を占め、面積は約2万uです。社殿は本殿、幣殿、拝殿、神輿舎、神饌所、祭器庫、神符授与所、手水舎、斎館、神楽殿、宝物館、絵馬殿などをそなえています。
 春の「上杉まつり」は4月29日から5月3日まで催されます。例大祭も盛大に催され、太鼓と笛の音が鳴り響き鎧甲の武者行列が市中を練り歩くそうです。
 2月第2土・日には「上杉雪灯篭まつり」も開催されます。

 稽照殿(けいしょうでん)は米沢城本丸跡の上杉神社境内にあります。大正12年、上杉神社再建時、宝物殿として創設したもので、神殿風の重層建築です。
稽照殿
 上杉謙信や2代景勝、10代鷹山など多数の重要文化財を含む歴代上杉家藩主の遺品や資料を展示しています。1000点以上の収蔵物の中には、秀吉や信長から贈られたという豪華な品も残っています。
稽照殿



松岬神社
まつがさきじんじゃ
山形県米沢市丸の内1−1
Tel 0238-22-3189
 明治35年(1902)4月、上杉神社から上杉鷹山を分祀してその摂社として創建されました。大正元年(1912)、新殿造営にともない県社に列しました。
 大正8年(1919)春日神社を合祀し、大正12年(1923)には上杉景勝を合祀しています。鷹山の師、細井平洲や米沢を建設した直江兼続、そして米沢藩復興の功臣竹俣当綱、莅戸善政なども祭神としています。
 昭和36年(1961)、アメリカの第35代大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人の記者からの「日本で最も尊敬する人は誰か」との質問に、「上杉鷹山」と答えたそうです。



霞城公園(山形城址)
かじょうこうえん(やまがたじょうし)
山形県山形市霞城町1−1
 山形城は延文元年(1356)東北の南朝方に備えて、足利尊氏が出羽按察使に任命した斯波兼頼が翌年に館を構えたのが始まりです。斯波兼頼はこの地を拠点として出羽の南朝勢力を制圧。斯波氏の子孫は土着して地名の最上氏を名乗りました。
 戦国時代の天文15年(1545)、10代当主最上義守の長男、義光(よしあき)が生まれました。11代になった義光は次々に勢力を拡大させていきました。
最上義光像
 天正5年(1577)天童頼澄を追って天童を奪い、東根を攻撃。同9年(1581)新庄盆地に兵を進めて佐々木氏を倒し最上郡を平定しました。同15年(1587)尾浦城(鶴岡市)の武藤義興を滅ぼしました。
 その頃、伊達氏が南方へ侵攻したのに対して、義光は着々と北方へ勢力を広げていきました。義光の父、義守の妹義姫が政宗の母という親戚関係でした。
 関ヶ原の戦いの頃、直江兼継が率いる上杉軍が優勢のまま山形城まであと少しの長谷堂城まで侵攻してきました。最上は、伊達に援軍の要請をし、政景の援軍によって上杉を撤退させることができたのです。
 山形城は直江軍に攻められた時、山形城が秋の霞につつまれ、城内が隠れて攻撃されずに持ちこたえたとのいい伝えがあることから「霞が城」とも呼ばれるようになったそうです。
 最上義光は小田原北条攻めの際、豊臣秀吉のもとに真っ先に駆けつけ信頼を得ていきました。関ケ原合戦時には東軍の徳川家康に加勢して57万石の大大名となりました。西軍についた上杉氏は120万石から30万石に減封されたのでした。
山形城
 その後、義光は本拠地山形城下の整備、最上川の改修、庄内地方の新田開発、神社仏閣の復興など多くの民政事業の推進を計りました。慶長19年(1614)69才で波乱の生涯を閉じました。
 権勢を誇った最上氏も義光の孫の義俊の代にお家騒動が起こりました。義光には実子がいたのですが家康の息子を養子にしました。これが原因で家臣同士の権力争いになり、「最上騒動」が起こって改易となってしまったのです。
山形城
 元和8年(1621)徳川譜代の鳥居忠政が24万石で山形城に入封。その後は頻繁に城主の交替が行なわれ、廃藩まで12家を数えました。交替のたびに城主の石高が減少し、最後の水野氏はわずか5万石であったそうです。


山形市郷土館(旧済生館本館)
やまがたしきょうどかん(きゅうさいせいかんほんかん)
山形県山形市霞城町1−1  霞城公園内
Tel 023-644-0253
 この変型八角形の三層楼の旧済生館は国内においても優れた洋風建築物として国の重要文化財の指定を受けています。明治11年(1878)9月に竣工した擬洋風の病院建築物で県立病院として出発しました。
 明治21年(1888)に民営移管となり、更に明治37年(1904)には市営病院の本館として使用されました。済生館と命名したのは時の太政大臣三条実美だったそうです。
 創建当時はオーストリア人医師のローレツが近代医学教育の教鞭をとったことで知られています。昭和46年(1971)に「山形市郷土館」としてオープンしました。旧済生館をしのぶ郷土の医学と医療関係資料、郷土史料を展示しています。



山形県立博物館
やまがたけんりつはくぶつかん
山形県山形市霞城町1−8 霞城公園内
Tel 023-645-1111
 山形県内の地学や植物、動物、考古、民俗・歴史を総合的に展示しています。約800万年前に県内の大江町で生息していたヤマガタダイカイギュウのレプリカ(ジュゴンの仲間)が有名です。明治100年記念事業で設立された博物館です。



山形県郷土館(文翔館)
やまがたけんきょうどかん(ぶんしょうかん)
山形県山形市旅篭町3丁目4−51
Tel 023-635-5500
 山形県郷土館「文翔館」は山形県の旧県庁舎及び旧県会議事堂です。煉瓦造りの重厚なイギリス・ルネサンス様式を基調にした設計で、大正5年(1916)に建てられました。昭和59年(1984)に国の重要文化財に指定されました。
 山形県郷土館は昭和61年(1986)から修理工事を始め、10年の歳月をかけて平成7年(1995)9月に完成しました。漆喰飾天井やシャンデリア、壁紙、絨毯、カーテンなどのモダンな意匠は当時のままに復原されています。
 旧知事室なども大正時代の家具までも復元されていて、その時代の雰囲気を味わえます。県の発展を伝える資料館としてだけではなく、音楽会や様々な展示なども使われています。



国分寺薬師堂
こくぶんじやくしどう
山形県山形市薬師町2−12−32
Tel 023-622-7769
 見ヶ崎川の近くの薬師町に国分寺薬師堂はあります。広い境内にはケヤキの大木が茂っています。奈良時代、聖武天皇の名をうけた僧行基が、ここに来て自ら薬師瑠璃光如来の像を彫ったそうです。そしてその像を祀って建立した寺院であるといわれています。
 毎年5月8日の薬師祭りから3日間東北一の植木市が開かれます。江戸時代から続いていて、全国3大植木市の一つに数えられています。東北、関東方面からも大勢の人が集まり大変な賑わいを見せているそうです。 
 植木市は、山形城主最上義光が大火にあって緑樹が少なくなった町内のため付近の農民に植木市を開かせたのが始まりと伝えられています。
 明治44年(1911)5月8日の大火によって金堂は類焼したそうです。そのため、真言宗宝幢寺本堂を移築して金堂にしたそうです。県議会の議事堂ができる前、この金堂で第一回目の県会が開催されたそうです。



出羽桜美術館
でわざくらびじゅつかん
山形県天童市一日町(ひといちまち)1−4−1
Tel 023-654-5050
 昭和63年(1988)、出羽桜酒造株式会社3代目社長仲野清次郎が永年にわたって蒐集してきた陶磁器、工芸品等の寄贈を受けて開館しました。出羽桜酒造の母屋を改造した建物に韓国古美術を展示しています。
 古韓国・新羅・高麗・李朝期の陶磁器と工芸品が展示されています。李王朝時代の白磁は稀な逸品揃いです。その他、近代文人の書、桜に因んだ工芸品、日本六古窯などもあります。


出羽桜美術館分館
斎藤真一心の美術館
山形県天童市一日町(ひといちまち)2−4−34
 平成5年(1933)日本画家である斎藤真一氏の絵画を集めた美術館も分館として開館しました。大正時代初期の蔵に、瞽女・明治吉原細見記・哀愁のイタリアの絵画を展示しています。
斎藤真一心の美術館



天童駅
てんどうえき
 天童は南北朝時代に北畠天童丸の領地であったところからこの名が生まれました。将棋駒をモチーフとした品格ある近代的な駅舎です。



天童市将棋資料館
てんどうししょうぎしりょうかん
山形県天童市本町1−1−1
Tel 023-653-1690
 天童駅のコンコース脇にあります。日本における将棋の起源や、天童で将棋駒が生産されるようになった由来といった、将棋の歴史について紹介しています。
 将棋の駒の生産は江戸時代に貧窮していた天童藩下級武士の手内職として始められたものだそうです。年産250万組、全国生産の95%を占めているそうです。



広重美術館
ひろしげびじゅつかん
山形県天童市鎌田本町1−2−1
Tel 023-654-6555
 東海道五十三次で有名な江戸の浮世絵師、安藤(歌川)広重の作品を展示しています。広重の作品の中に 「天童広重」という作品群があります。これは広重と交流があった天童藩士の依頼によって描かれたものだそうです。
 このことにちなんで平成9年(1997)に天童温泉滝の湯ホテルの経営で開館しています。「天童広重」を含む初代から4代までの作品や「東海道五十三次」などの錦絵など貴重な美術品が納められています。
 安藤広重は歌川豊広の門人で狩野派、南画、四条派なども学びました。 風景画を得意として代表作は「東海道五拾三次」です。各地の名所絵を数多く残しています。



天童城跡(舞鶴山公園)
てんどうじょうせき(まなづるやまこうえん)
山形県天童市天童城山
 舞鶴山に城を築いたのは、南北町時代の頃、南朝方の北畠親房の後裔である北畠天童丸です。吉野朝興隆のため、村山盆地を一望できる好立地のこの地に居を構えたのが始まりです。この一帯は市民の憩いの公園となっていて春には2千本のソメイヨシノが咲き乱れます。
 領主は代々、天童氏を名乗り、山形最上氏と肩を並べる奥州の名門として、その威容を誇りました。十代頼久の時代に、義兄の山形城主最上義光に攻められ、壮絶な戦いの末、天正12年(1584)落城し、頼久は伊達家の家臣国分氏に逃れました。ここに初代頼直から数え、209年間の長きにわたる天童山城時代は終わり、以後この地に再び城が築かれることはありませんでした。

 将棋駒全国一を誇る天童市のシンボルとして公園内に建てられました。王将の文字は大山15世名人の書によるものだそうです。毎年春にここで将棋駒の供養祭が行われるそうです。
将棋塔
 供養祭の時には人間将棋が繰り広げられるそうです。太閤秀吉が桜花爛漫の伏見城で関白秀次を相手に、小姓と腰元を将棋駒に仕立てて楽しんだ故事にならったものだそうです。
人間将棋盤
 宝暦8年(1758年)8月、天童の俳人菱華亭池青が、おくのほそ道行脚70年を記念して、念仏寺境内に「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑を建立し翁塚としました。
念仏寺跡の翁塚



旧東村山郡役所
きゅうひがしむらやまぐんやくしょ
山形県天童市五日町2−4−8
Tel 023-653-0631
 旧東村山郡役所は明治12年(1879)に建てられた3階建ての建物です。明治時代の洋風建築としては県内では最も古い時代のものだそうです。玄関ポーチやベランダ部の八角柱などモダンな感じです。
 昭和60年(1985)にこの場所に移築されました。天童織田藩関連資料や明治維新前後の資料を中心に、240点余りを展示しています。山形県の有形文化財に指定されています。



山寺芭蕉記念館
やまでらばしょうきねんかん
山形県山形市山寺南院4223
Tel 023-695-2221
 市制施行百周年と、奥の細道300周年を記念して、ゆかりの地である山寺(立石寺)門前に建てられた山形市営の博物館です。
 景観に配慮して設計された和風平屋建ての館内には芭蕉真筆の芭蕉会式「懐紙」や『奥の細道』関連の資料を展示しています。
 俳聖松尾芭蕉は元禄2年(1689)「奥の細道」行脚の途上山寺を訪れました。
 「閑さや岩にしみ入蝉の声」
という有名な句を詠みました。
 茶室「芭蕉堂」では500円で抹茶をいただくことができます。この場所から百丈岩の中に山寺(立石寺)の舞台造りの御堂、五大堂などが山の上の方に見ることができます。



後藤美術館
ごとうびじゅつかん
山形県山形市山寺2982−3
Tel 023-695-2010
 後藤美術館は名勝山寺と対面する位置に平成6年(1994)に開館しました。山形県河北町出身の後藤季次郎氏(東京在住)収集によるフランスバルビゾン派の絵画を中心に、ガレ・ドーム等のガラス工芸品・陶版画・ロダンの彫刻など展示されています。
 バルビゾンとは、バリから60キロほど郊外にある風景画家たちが愛した村の名前です。自由と独立を尊んだバルビゾン派の画家たちはそれぞれ独自の分野を開き、神秘的な森や樹木、農民画、動物画など描きました。



立石寺(山寺)
りっしゃくじ(やまでら)
山形県山形市山寺4456−1
Tel 023-695-2002
 山寺の別称をもつ立石寺(りっしゃくじ)は、正式には宝珠山阿所川院( ほうじゅさんあそかわいん)立石寺といい、山形市の北東14kmの山形市の鬼門にあたる宝珠山の山腹に位置しています。第56代清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が貞観2年(860)に開山しました。
 立石寺は、開山後すぐに380町の寺領を免租地として下賜され、慶長・元和(1596〜1624)期は2420石の寺領に及ぶなど朝廷の手厚い保護を受けました。徳川3代将軍家光の時は1400石の寺領を得て僧坊も36を数えました。
 「奥の細道」で、芭蕉が立石寺を訪れ
 「閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉の声」
の句を詠んだことでも知られています。

 国指定重要文化財となっている根本中堂は立石寺本堂でもあります。延文元年(1356)、初代山形城主・斯波兼頼(しばかねより)が再建しました。本堂内には、慈覚大師作の木造薬師如来像が安置され、比叡山延暦寺から分火された火は奥の院(如法堂)の常火、開山堂の常香、根本中堂の法燈と3つに分けられ灯されています。
立石寺本堂
 立石寺は一山の総称でその名の堂宇はありません。この根本中堂が立石寺の本堂であり中心道場でなのです。薬師如来のほか伝教大師や文珠毘沙門の諸像が安置されています。
立石寺本堂
 根本中堂の法燈は、千年以上の昔から火を灯し続けています。天台宗宗祖伝教大師が中国の天台山国清寺から伝えたものです。大永元年(1521)、天童頼長により一山が焼かれた時、円海和尚が比叡山より改めて火を貰い受けました。その50年後の元亀2年(1571)、織田信長によって比叡山が焼き払われ、再興の折、逆に立石寺から延暦寺に分火されたそうです。
立石寺本堂

 山寺の大イチョウです。
 根元の周りが約10mあります。幹部は空洞となって一部欠損していますが地上1.8mのところでは7.2mあります。高さは30mだそうです。昭和47年9月17日の台風で主幹が折れてしまったそうです。
山寺の大イチョウ

山寺日枝神社
 山寺日枝神社は根本中堂と松尾芭蕉の像がある中間ぐらいにあります。貞観2年(860)慈覚大師の開山にあたり、釈迦、薬師、阿弥陀三尊を安置して守護神としました。江戸時代までは山王権現といわれていました。
山寺日枝神社

念仏堂
 念仏堂は、慈覚大師が入唐の際、五台山竹林院で授かった念仏三昧の法を修めた道場です。宝冠をつけた大師作の阿弥陀如来像が本尊となっています。
念仏堂
 念仏堂には、徳川将軍家の霊碑、山形24万石鳥井左京亮や同15万石源直基などの位牌が安置されています。「常行念仏堂」の扁額は、東叡山第五世兼立石寺第51世公弁法親王の書です。
こけし塚

鐘楼堂
 「除夜の鐘」で知られる鐘楼堂です。鐘は招福の鐘として有名です。除夜の鐘は1月1日午前0時から打たれ、12月31日の夕方頃から鐘楼堂の入口に長い行列ができます。
鐘楼堂

山 門
 鐘楼堂を右に見て石段を登ると、左側に「山寺宝珠山立石寺」と彫られた2mを越す石柱があり、その先に、鎌倉時代末期の建立と伝えられ、「開北霊窟」の扁額を掲ぐ山門があります。
立石寺山門
 立石寺は、創建以来、たびたび火災にあいましたが、根本中堂と山門だけは当時の姿を残しています。山門は開山堂などへの入山口です。大仏殿のある奥の院までは800段の石段が待ち構えています。
立石寺山門

姥堂
 姥堂は、これを境にこれより上は極楽、下は地獄といわれています。つまり極楽浄土への入口なのです。十王経に書かれた鬼婆で、三途の川のほとりにいて亡者の着物を奪い取るという奪衣婆(だつえば)の像と地蔵尊が並んで祀られています。
姥堂

 姥堂の向かい側に、形が笠に似ていることから笠岩、笠投岩と呼ばれる巨岩が鎮座しています。慈覚大師が岩陰で雨宿りしたという伝説の岩です。
 天台宗の教学道場として開かれた立石寺は、古来より奇岩怪石の霊窟として広く知られています。凝灰岩の岩質やその肌を抉(えぐ)る多数の風化穴は幽境の聖域を感じさせます。

せみ塚
 蝉塚は、俳人壷中(こちゅう)を中心とする俳諧仲間が、宝暦元年(1751)、芭蕉が書いた短冊を埋めて石碑を建てたところです。碑の表に「芭蕉翁」、側面に「静さや岩にしミ入蝉の声」の句が刻まれています。背後には五大堂や納経堂、開山堂をいただく百丈岩の絶壁がそそり立っています。
せみ塚

弥陀洞
 蝉塚から更に登ると、直立した巨岩が見えてきます。長い歳月による自然の営みが岩を風化させ、阿弥陀如来の姿にみえるので「弥陀洞」と呼ばれています。岩の高さから「丈六(一丈六尺。約4.8m)の阿弥陀如来」とも呼ばれているそうです。仏の姿に見えた人には幸せが訪れるそうです。
弥陀洞

仁王門
 弥陀洞の先に奥の院の山門・仁王門があります。嘉永元年(1848)に再建されたケヤキ材の優美な門です。左右に安置された仁王尊像は、運慶第13代の後裔平井源七郎の作と伝えられ、傍らに高さ45cmの十王尊を祀っています。
仁王門
 仁王尊像は、邪心をもつ人は登ってはならないとにらみつけているのです。後方の閻魔王がこの門を通る人たちの過去の行いを記録するといわれています。
仁王門
 右側の岩穴に見える石塔には、亡くなった人のお骨が入っているそうです。他の岩穴にも古い人骨が納められているそうです。
仁王門


 修行の岩場があります。危険な岩場を通ってお釈迦様のみもとにいたる行場(ぎょうば)で、出世や欲望の為の修行者が岩場から転落したことも多かったそうです。
修行の岩場

 金乗院は山内支院の一つです。江戸時代までは12の塔中支院があり、多くの僧が修行に励んでいました。今は性相院、金乗院、中世院、華蔵院の4つの院が面影を残しています。
金乗院

開山堂
 開山堂は、立石寺を開いた慈覚大師の廟所で、立石寺第65世情田和尚が嘉永4年(1851)に再建しました。山内の僧侶が朝夕、食飯(じきはん)と香を供えお勤めしています。
開山堂
 堂内には、大師の座像が安置され、また、中国の天台山国清寺から伝えられた千年以上香煙をゆらし続ける不滅の「常香」があります。
開山堂

五大堂
 正徳4年(1714)に再建された舞台造りの御堂です。大聖不動明王、東降三世明王など五大明王を安置しています。
五大堂
 天下泰平を祈る道場で山寺随一の展望台になっています。五大堂の標高は約380mで、山寺でもっとも観光客に人気があるスポットの1つです。


納経堂
 納経堂は岩の上にある小さな堂です。写経を納めるところで、山内では最も古い建物だそうです。県の指定文化財です。真下には慈覚大師の眠る入定窟(にゅうじょうくつ)があります。
納経堂
 入定窟の調査が昭和23年(1948)から24年にかけて行われました。5体の人骨が発見されそのうちの1体は慈覚大師である可能性があるということです。
 入定窟の入口は四重の板扉で塞がれ、中はやや方形で奥行が五尺五寸(165cm)でした。大師のものと推定された遺骸は金棺に納められていました。頭蓋骨はなく木彫りの頭像が安置されていました。頭像の制作年代は平安初期と鑑定されたようです。

奥の院
 正面右側の古いお堂が奥の院の如法堂です。石墨草筆(せきぼくそうひつ)の写経道場で、明治5年(1872)に再建されています。
奥の院
 開山慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いたといわれている釈迦如来と多宝如来を本尊としています。比叡山延暦寺から分火された火は奥の院(如法堂)の常火に千年以上受け継がれています。
奥の院
 正面左側には大仏殿があります。像高5mの金色の阿弥陀如来像を安置しています。毎日卒塔婆供養(そとばくよう)を行っているそうです。
奥の院
 大仏殿の秋の彼岸の中日の施餓鬼法要(せがきほうよう)には宗派をこえた数千人の参拝者で賑わうそうです。
奥の院

 奥の院まで800余段の石段を、一段一段登ることによって、煩悩が消えて幸福になれるそうです。

三重小塔
 奥の院の手前の参道に戻り、看板に沿って別の石段を登っていくと、華蔵院に行きます。その手前に岩窟の中にすっぽりと納められた三重小塔があります。
三重小塔
 塔銘により、十穀静允の作で静運が寄進、建立が永正16年(1519)6月であることがわかります。この塔は、相輪頂までの高さが2.4m余りという全国で最も小さいもので、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。
三重小塔



慈恩寺
じおんじ
山形県寒河江市慈恩寺31
Tel 0237-87-3993
 小高い山の山腹に、閑散とした杉木立の中にたたずむ瑞宝山慈恩寺は、天平18年(746)聖武帝の勅命により行基がこの地を選び、婆羅門僧正が開いたと伝えられています。
仁王門
 神亀元年(724)、行基が諸国遊錫に訪れ、都に帰った折り、この地の景勝を聖武帝に奏上され、勅宣を以って開山し、勅願寺と定められたそうです。
 弥勒菩薩を本尊として最上院・宝蔵院・華蔵院の3ケ院、それに付属する48坊からなる一山組織の寺院であったそうです。現在は3ケ院16坊です。
 天仁元年(1108)鳥羽帝の勅宣によって奥州藤原基衡がここ慈恩寺を修復したようです。仁平年間(1151-1153)に奈良興福寺の僧願西上人が再興諸堂を行ったそうです。
 京文化を伝える平安時代後期の仏像が14体もあるのは興福寺からの影響です。興福寺は法相宗の寺であり、慈恩寺という寺号は法相宗の祖慈恩大師からつけられたようで当時すでに法相宗の寺院となっていたようです。
仁王門
 東北を代表する古刹・慈恩寺の本堂は国の重要文化財に指定されています。堂内の普賢菩薩像、阿弥陀如来、文殊菩薩、十羅刹女が国の重要文化財の指定されています。慈恩寺本堂は保存修理のため平成16年まで工事中でした。
本堂弥勒堂
 寛永19年(1642)最上院は上野寛永寺末となり天台宗に改宗し、慈恩寺は天台真言両宗兼学の一山となりました。終戦後一山は、宗教法人として独立し、本山慈恩寺を名乗り、慈恩宗となっています。
本堂弥勒堂
 現在の本堂は元和4年(1618)、山形城主の最上義光が再建したといわれています。最上氏より以前は大江氏の庇護をうけていたようです。最上氏改易後は幕府より3812石の御朱印を受けていたようです。
阿弥陀堂
 宝蔵院表門は慈恵寺の中で一番古い建造物の一つです。屋根修理の際、最古の護摩札が慶長18年(1613)であることからそれより以前に建てられたものです。県指定有形文化財です。
宝蔵院表門
 慈恩寺の山門は楼門づくりで仏教を守護する仁王尊が祭られているので仁王門ともいいます。5月5日の一切経会のお祭りで奉納する舞楽の楽屋としても使用されます。屋根改修の際発見された札で慶長18年(1613)のものがあったところから慈恩寺山中一番古い建造物の一つです。県指定有形文化財です。
仁王門
 薬師堂にある薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)と、この眷族である薬師十二神将は、国の重要文化財に指定されています。これらの仏像は、ワシントンで開催の国際彫刻展に日本を代表して出陳されたそうです。
薬師堂
 高さ26.7mの慈恩寺三重塔です。屋根は銅板葺で山形県指定有形文化財です。慶長13年(1608)山形城主の最上義光(よしあき)が建立しました。その後焼失し文政13年(1830)に慈恩寺の大工棟梁・布川文五郎によって再建されました。
慈恩寺三重塔
 村山盆地ではただ1ヶ所の三重塔です。塔は高欄のない縁をめぐらし、縁の下は板張りになっています。堂内には1本の太い木が中心にさげられており、バランスをとるような仕組みになっています。
 慈恩寺舞楽は国重要無形民俗文化財となっています。
慈恩寺三重塔



熊野神社
くまのじんじゃ
山形県寒河江市大字慈恩寺字田沢3
 熊野神社本殿は保元元年(1156)後白河天皇の勅願で勧請されました。その後、永正元年(1504)兵火のため延焼し、延宝9年(1681)に再建されています。昭和63年(1988)県の有形文化財に指定されています。
 文治2年(1186)院宣を真言門人弘俊阿闍梨に帯せしめて慈恩寺に下し当社をもって一山の鎮守にしたと記されています。江戸前期の一間社の流れ造りです。



山王台公園
さんのうだいこうえん
 慈恩寺の直ぐ上に山王台公園があります。寒河江(さがえ)十景の一つなのだそうです。遊歩道が整備され、周辺道路を含め約2km程度にわたって散策が楽しめます。



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