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日本の旅
日本の旅          宮城・仙台

金成ハリストス正教会
かんなりはりすとすせいきょうかい
宮城県栗原市金成上町西裏60−1
Tel 0228-42-1004
 金成(かんなり)ハリストス正教会は日本初のロシアハリストス正教信徒だった酒井篤礼の遺志を継ぎ、川股松太郎が昭和9年(1934)に建立した教会です。建物は鐘楼の高さ17m、面積125uのビザンチン式教会です。その美しさから「みやぎ新観光名所100選」にも選定されています。
 日本正教会の創立者ニコライがキリシタン禁制の幕末の文久元年(1861)に箱館(函館)のロシア領事館司祭に就任しました。安政5年(1859)日本は米・蘭・露・英・仏と通商条約を結び、条約には在留地内において外国人が自国の宗教を信仰し、教会を建てることは自由でした。
 当時開港していた箱館には外国人から洋学を学ぼうとする人が集まっていました。坂本龍馬の従弟で神官の沢辺琢磨はニコライのハリスト教の宗門教義に心服しました。そして知人の酒井篤礼と共に明治元年(1868)禁教令を冒して日本で最初の受洗者となりました。
 明治新政府がキリシタン弾圧を強化しはじめると、酒井は妻を実家に潜伏させ医業の傍ら伝道を行いました。以来、検挙・投獄・出獄を繰り返していましたが、明治14年(1881)、46歳で盛岡で客死しました。



志波姫神社
しわひめじんじゃ
宮城県栗原市志波姫八樟新田126−1
Tel 0228-23-2228
 志波姫神社は北上川流域唯一の大明神です。木花開耶姫命を祀る延喜式内社栗原7座の大社で、延暦年間に坂上田村麻呂東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられています。本殿は慶安3年(1650)の建築とされています。
 志波姫神社は伊豆野権現社と称し、築館町源光にありました。寛永16年(1639)伊達第2代藩主忠宗は、家臣古内主膳重廣に伊豆野原の開拓を命じました。伊達藩の土木技術者・川村孫兵衛元吉に開拓工事の設計を依頼し、正保元年(1644)工事に着手、3年の難工事の末、伊豆野堰を完成させました。
 伊豆野堰によって、伊豆野原開拓に成功した古内重廣は、明暦3年(1658)に伊豆野権現社社殿を造営し、水下15村の守護神として源光からこの地に遷座しました。
 明治22年(1889)市町村制の施行により、姫郷村、白幡村、梅崎村の3村が合併し、志波姫村とし、神社も志波姫神社になりました。本殿は素木造一間社流造り、目板葺で江戸時代初期の寺社様式を伝え、宮城県指定有形文化財です。



旧有備館・庭園
きゅうゆうびかん・ていえん
宮城県大崎市岩出山字上川原町6
Tel 0229-72-1344
 旧有備館及び庭園は国の史跡名勝に指定されている、現存する日本最古の学問所です。岩出山伊達家2代宗敏の時、寛文3年(1663)に岩出山城の二の丸が火災により焼失し、仮居館として建てられたものなのです。
 3代敏親が元禄4年(1691)に領内の学問向上のため仮居館を「春学館」と名づけ藩校としました。翌年、現在の場所に移転し「有備館」と改め、本格的に手が加えられました。現在に見られる木造平屋建て、寄棟、萱葺の建物が整備されたのです。
 有備館の庭園は3代泰治の時、正徳5年(1715)に仙台藩石州流茶道3代清水道竿によって作庭されました。回遊式池泉庭園で岩出山城を借景として、池の中には茶島を中心として鶴島、亀島、兜島などを配しました。
 伊達政宗は、天正19年(1591)に米沢から岩手沢に居城を移し、岩手沢を岩出山と改めました。慶長6年(1601)仙台城に移りましたが、岩出山は政宗の4男宗泰に治めさせました。宗泰を初代とする岩出山伊達家が代々伊達一門として治めたのです。
 有備館及び庭園は、昭和8年(1933)地方領主が建てた最古の学問所として国指定史跡に、庭園は国指定名勝となりました。昭和45年(1970)伊達家の好意により、旧岩出山町へ移管されました。



瑞川寺
ずいせんじ
宮城県大崎市古川三日町2−2−2
Tel 0229-22-0327
 曹源山瑞川寺は曹洞宗のお寺です。中世、大崎一帯を支配した大崎氏の庇護を受け、郡内第一と称されました。天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易、大崎葛西の一揆による兵火によって焼失し廃寺となってしまいました。
 慶長の初め、伊達政宗の重臣で古川城主となった鈴木和泉守元信が瑞川寺の廃絶をなげいて、仙台の松音寺の6世松庵堅貞禅師を招き中興開山とし堂宇を再建しました。
 室町時代の様式を受け継ぐ、重厚な2階建ての「山門」は旧古川城の搦手門を鈴木氏が移築、寄進したもので、寺門風に改造しています。古川地区最古の木造建造物で、市の文化財に指定されています。
 山門は間口3.7間、奥行が2.4間で二階建てで、上下の構造を異にしながら古色彩然として、特有の風格に富んでいます。広い境内には鈴木和泉元信の墓所もあります。



瑞巌寺
ずいがんじ
宮城県宮城郡松島町松島字町内91
Tel 022-354-2023
 瑞巌寺は天長5年(828)慈覚大師円仁によって創建された奥州随一の禅寺で、正式には「松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざんずいがんえんぷくじ)」という長い名前です。伊達家累代の菩提所です。
 東北を代表する観光地・松島の中軸を成し、千年を越す寺歴に、奥州藤原2代基衡、執権北条時頼、仙台藩藩祖伊達政宗らの名を連ねる東北地方きっての名刹です。
 杉の巨木が参道の両側に立ち並び、昼でも薄暗い境内です。ここを抜けると桃山文化風の豪壮華麗な大堂宇が甍を並べています。国宝の本堂と庫裏をはじめ、多くの堂宇が文化財の指定を受けています。
 当初は天台宗で延福寺と称し比叡山延暦寺と肩を並べる大寺院でした。その後、鎌倉幕府の執権である北条時頼によって廃絶させられ、法身禅師(法身性西)が開山に迎えられ、臨済宗建長寺派円福寺となりました。
 法身禅師は北条時頼が宋から招いた高僧欄渓道隆(鎌倉建長寺開山の大覚禅師)に円福寺の住持職を譲ります。大覚禅師が入山すると、円福寺の格式は更に高まり、東北最大の禅院として栄えました。
 室町時代には五山十刹制度の諸山にも列する程にもなりました。近世に入ると、伊達政宗が、慶長9年(1604)8月、自ら縄張りし、足掛け5年の歳月をかけ、慶長14年(1609)に奥羽屈指の大寺院を建立しました。
 遠く紀州熊野の山中から良材を運搬させ、諸国から130人以上の名工を集めました。約5年間という期間をかけ桃山建築の粋を尽くした建物を造営し、スペイン人ビスカイノに「木造では円福寺が世界一」といわしめたのでした。
 現在も当時の建物が残り本堂と庫裏は国宝、御成門、太鼓塀、中門は国重要文化財、総門は宮城県指定重要文化財にそれぞれ指定されています。
 瑞巌寺完成の翌年、政宗が小さい頃の学問の師、虎哉(こさい)禅師の推薦で越前法泉寺から第96代住持として海晏(かいあん)和尚が招聘され、今の寺号「瑞巌寺」になりました。
 慶長16年(1611)虎哉と海晏が相次いで没し、月叟玄良、碧堂智崔などが住持しましたが短期間で終わりました。政宗は傑僧誉れ高い雲居(うんご)禅師に住持になってもらいたいと頼み続けましたが、二度にわたって断られました。
 政宗の没後、雲居禅師は2代藩主忠宗の強い願いを聞き入れ第99代として住持し、政宗の百ヶ日忌を営んだということです。
 政宗は伊達家の菩提寺を瑞巌寺と定めましたが、完成後の瑞巌寺を、政宗が訪れたのはたった2回だけだったということです。
 瑞巌寺は、本堂(方丈)と庫裡を配置する禅宗伽藍で、御成門と中門を太鼓塀でつなぎ、中庭から見て、正面に本堂、右に庫裡と廊下、左に玄関が造られています。

 国宝の本堂は書院造りで入母屋造り、本瓦葺きです。三方に上縁、下縁を廻らし、室中孔雀の間、仏間、上段の間、上々段の間など10室の部屋で構成されています。正面の幅は39m、奥行き25.2mです。京都の根来の大工衆が技を競った建物です。
本堂
 国宝の庫裏は切妻造りの本瓦葺きです。禅宗寺院の台所にあたります。屋根には入母屋造り本瓦葺きの大煙出しを載せています。唐草の透かし彫りなど名工の腕が冴えた庫裡の傑作といわれています。巨大さと妻飾りの彫刻、白壁と木組みのコントラストが美しく、屋根には煙出しが見られます。
庫裏
 御成門は、入母屋造り、本瓦葺き、軒の出も深く重厚な門です。本柱の後方に控柱を建て、前後の柱の中央に屋根の棟線が来ないで全面にずれる薬医門の形式です。国の重要文化財に指定されています。
御成門
 政宗の正室陽徳院田村氏愛姫(1568-1653)の墓堂です。万治3年(1660)孫の綱宗によって造営されました。平成18年(2006)から3年をかけ創建当初の豪華絢爛な姿に復元されています。宝形造、銅板葺、9尺(2.72m)四方の周囲に勾欄(手すり)つきの回廊を廻らし、正面に向拝と木階を備えています。県指定有形文化財です。
陽徳院(愛姫)御霊屋



五大堂
ごだいどう
宮城県宮城郡松島町松島字町内111
 日本三景に数えられる松島のシンボルともなっているのが五大堂です。瑞巌寺が管理する小堂で東北地方最古の桃山建築として、国の重要文化財にも指定されています。
 大同2年(807)坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立し創建しました。その後、慈覚大師円仁が後の瑞巌寺となる延福寺を開いた際に、五大明王を安置したことから五大堂と呼ばれるようになったそうです。
 現在の建物は、慶長9年(1604)伊達政宗が修復、造営したものです。素木造、方3間、向拝をつけ勾欄付縁をめぐらし、屋根は宝形造り、本瓦葺で、軒の出が大きく、総体に落ち着いた比例をなしています。
 政宗は紀州(和歌山県)の名工・鶴衛門家次に命じて建立させました。内部に重厚な家形厨子を置いて、五大明王像を安置しています。有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築の由緒あるお堂です。
 朱塗りの縁結び橋は透かし橋になっていて足の下には海が見えます。お堂に入る前に気持ちを引き締めるために、このような橋が渡されているということです。



松島
まつしま
宮城県宮城郡松島町松島海岸
 松島は平安時代から数多くの歌が詠まれ風光明眉な地としてしられています。林羅山は天橋立、安芸の宮島とともに日本三景と讃えました。
 松尾芭蕉は「松島や 嗚呼松島や 松島や」と詠んでいますがそれほど感激したのでしょう。また「扶桑第一の好風」とも感嘆しています。
 松島湾に浮かぶ島の数は俗に8百8島といわれますが実際には大小260あまりだそうです。

 松島の名の通りどの島にも枝振りの良いクロマツやアカマツデでおおわれています。盆栽を見ているようです。



 海上からの絶景を楽しみたい人は松島観光遊覧船を利用できます。松島海岸の観光桟橋の他に本塩釜駅そばのマリンゲート塩釜からも発着しているそうです。



鹽竈神社
しおがまじんじゃ
宮城県塩竈市一森山1−1
Tel 022-367-1611
 鹽竈神社は塩竈湾を東に望む一森山の山頂にあります。古代より陸奥国の一之宮として古い歴史をもち、航海安全、国土開発、安産の神として崇敬されてきました。 
 参道は男坂といわれる表坂、女坂といわれる裏坂、そして七曲坂があります。「石の階九仞に重なり…」と芭蕉も記した202段の石段の表坂は大鳥居から楼門まで一直線に延びています。
 神社の建物は左右宮拝殿とその本殿、別宮拝殿とその本殿、回廊、中門、随身門、廻廊、石鳥居などがあります。いずれも国の重要文化財に指定されています。左宮の祭神は武道の神として有名な武甕槌神(たけみかずちのかみ)、右宮の祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)です。
 別宮の祭神は塩土老翁神(しおつちおじのかみ)といい塩の作り方を伝えてくれた神として有名です。安産の神としても有名で、皇太子殿下が御誕生の折、皇后陛下の母君正田富美子さんがここで御祈願したほどです。
 本殿は三社とも木造素木流造り、桧皮葺き、三方に匂欄の縁があります。別宮と左右宮拝殿はいずれも朱漆塗入母屋造銅板葺で、宝永以降20年に一度の御屋根葺替の式年遷宮の制度を設けています。
 現在の社殿は慶長12年(1607)伊達政宗が再興し神域を定め、元禄8年(1695)4代藩主綱村が造営に着手、9年間の歳月をかけて宝永元年(1704)に竣工したものです。
 武家社会になってからは、当時東北の権力者であった平泉の奥州藤原氏、鎌倉幕府の留守職であった伊沢氏など武将、豪族の崇敬も並々ならぬものがありました。
 伊達家は慶長5年(1600)に伊達政宗が岩出山から仙台に居城を移してからは社殿の造営を完成させました。明治に至るまで歴代の仙台藩主は大神主として神社を治め、社領、太刀、神馬を奉献しました。

 右宮の前には「奥の細道」で「神前に古き宝燈有り」で知られる素朴で力強い南部鉄の灯籠があります。藤原秀衡の3男である和泉三郎が寄進したもので、扉に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」と浮き彫りがあり「文治の鉄燈」と呼ばれています。
文治の鉄燈
 寛政4年(1792)藤塚式部が献納した日時計です。奇人といわれた林子平が寛政(1989ー1800)のころ南蛮製の日時計を参考にして作ったものだそうです。平らな石盤の上に垂直なほそい鉄線を立て、太陽の光の影を石盤に写して時刻をはかるものです。
日時計
 樹齢500年、樹高22mの塩竃神社の多羅葉(たらよう)です。県の天然記念物に指定されています。鹽竈桜として有名な国の天然記念物桜樹もあります。花菖蒲、宮城野萩など、花の名所としても有名です。
多羅葉



志波彦神社
しわひこじんじゃ
宮城県塩竈市一森山1−1
Tel 022-367-1611
 志波彦神社は岩切冠川のほとりにまつられ、冠川明神ともいわれていました。。古くから陸奥国百社の名神大社として信仰を集め、格式の高い神社でした。明治天皇の命により明治7年(1874)に塩竃神社の別宮に遷し祀られたものです。
 志波彦神社の祭神は志波彦の神であり、国土開発・産業振興、とくに農耕守護の神として信仰されていました。塩竃の神に協力した神と伝えられています。
  「志波」とは、端、つまり国土の北限という意味があるようです。宮城県内には北部の栗原郡に志波姫町、仙台市には志波町、岩手県紫波郡には志波城跡があります。これは大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、シワの地が動いていったと思われます。



西公園
にしこうえん
宮城県仙台市青葉区桜ヶ岡公園
 西公園は仙台城址の北東方、広瀬川の左岸沿いにある公園で面積は3万uです。明治8年(1875)に開園した市内で最も古い都市公園で桜の名所です。当時は桜ヶ岡公園と称していましたが、町の西側にあることから西公園と呼ばれるようになり現在の西公園に名称が変わりました。
 仙台藩初代藩主伊達政宗が朝鮮から持ち帰ったという幹が3mほど伏臥している政宗ゆかりの「臥龍梅(がりょうばい)」があります。また、仙台空襲の際に焼けたにもかかわらず翌春には芽吹いたといわれるイチョウの古木などもあります。



仙台城跡(青葉山公園)
せんだいじょうせき(あおばやまこうえん)
宮城県仙台市青葉区川内1
Tel 022-261-1111
 JR東北本線仙台駅から西南に約2Kmのところに仙台城祉の青葉山公園があります。仙台城は、別名青葉城といい、城の回りには外堀の機能をはたすように広瀬川が流れています。
 仙台城は文治元年(1189)源頼朝の奥羽討伐ののちこの地の地頭になった千葉胤通が青葉山に居館を築いたことから始まりました。
 関ヶ原の戦いの後62万石に加増された伊達政宗は慶長5年(1600)青葉山を城地として自ら縄張りをして築城工事を起こし2年で完成させました。家康の警戒を避けるために、あえて天守閣は設けなかったそうです。
 本丸は明治の廃藩置県で取り壊されてしまいました。二の丸も明治15年(1882)に火災で焼失してしまいました。大手門は豊臣秀吉が造った九州名護屋城の大手門を移築した壮麗なものでしたが太平洋戦争で焼失してしまいました。昔をしのぶ建物は何も残っていませんが、天守台から市を一望することができます。
 本丸跡の天守台には仙台藩初代藩主伊達政宗の騎馬像が建っています。威風堂々として城下を睥睨しています。正に独眼竜といわれた戦国大名の面影が伝わってきます。
 本丸あとに昭忠塔が建てられています。西南の役(明治10年)、京城事変(明治17年)、日清戦争(明治27−28年)をはじめとする内外の戦いで多くの東北地方の将兵が戦死しました。慰霊のために明治35年(1902)11月に竣工しました。昭忠の字は小松宮彰仁親王の親書です。



宮城県護国神社
みやぎけんごこくじんじゃ
宮城県仙台市青葉区青葉区川内1
Tel 022-223-7255
 青葉山の山上の仙台城本丸あとに護国神社があります。明治37年(1904)、招魂社を建立したのが始まりです。昭和14 年(1939)内務大臣指定護国神社として、宮城県護国神社と改称しました。
 昭和20年(1945)の戦災で社殿が焼失してしました。昭和33年(1958)伊勢神宮別宮・風宮の旧正殿を移築することができました。例祭は、春が4月30日から5月1日で、秋は10月23日です。
 明治維新以降の宮城県関係の国事殉難者を祀り、家内安全・商売繁昌の神として大勢の人が訪れています。
 境内には鎮魂の泉があります。青葉城の本丸下180mの地中より汲み上げた水をいつも御霊に捧げられるように作成されました。第二次大戦の南方の激戦地の石や砂、珊瑚なども用いています。
鎮魂の泉



仙台八木山ベニーランド
せんだいやぎやまべにーらんど
宮城県仙台市太白区長町越路19−1
Tel 022-229-1603
 仙台八木山ベニーランドは東北最大級のアミューズメントパークです。市街地や太平洋を見おろせる、絶好のロケーションです。
 ジェットコースター「サイクロン」や絶叫マシン「トップスピン」、「メガダンス」、観覧車、メリーゴーランドなどの定番マシーンまで、ファミリー・カップルのレジャースポットとして最適なところです。



東照宮
とうしょうぐう
宮城県仙台市青葉区東照宮1−6−1
Tel 022(234)3247
 東照宮は2代藩主伊達忠宗が慶安2年(1649)から承応3年(1654)までの5年がかりで造営した神社です。石鳥居を通り、石灯籠が立並ぶゆるやかな石段を登ると重厚な随身門の奥に社殿が建ち並んでいます。
 東照宮は仙台駅より北へ2kmほどの七北田丘陵南斜面にあります。この地に建てられたのは大崎一揆の際、徳川家康と伊達政宗が共に布陣した縁のある場所だったからです。
 祭神が徳川家康という東照宮は徳川幕府への忠誠心を示すために建立されました。この東照宮は、久能山や日光の東照宮が権現造りであるのに対し、本殿と拝殿を別棟に配している点で著しく様式が違っています。
 幣拝殿は昭和10年(1935)に焼失してその後再建された建物ですが、その他の社殿は被害が少なく、本殿、唐門、透塀、隨身門、石鳥居が国の重要文化財に指定されています。
  日光東照宮(栃木県日光市)を勧請し、社殿の建造に大工延べ13万人、人夫58万人、費用は2万2500両を費やしたそうです。全国から一流の棟梁や絵師を集め、当時の技術の粋を結集した大事業でした。
 明治時代初頭に発令される前は神仏混合で別当が仙台藩一門格筆頭寺院の仙岳院でした。東照宮は明治になって一時荒廃しましたが、氏子の力添えで再興されました。昭和52年(1977)から2年かけて唐門と透塀の修理が行われ、昭和54年(1979)には本殿の修理が行われています。

 随身門は入母屋造り、銅板葺きの3間1戸の楼門形式の8脚門です。当初は銅瓦葺きで要所には錺金具を付けていたそうです。軒下は複雑で肘木は天竺様のようですが和様となっています。2階勾欄は精巧な造りとなっていて均整がとれた重厚な造りとなっています。
東照宮随身門
 内外部とも透漆塗りで、下階は金剛柵で囲み、左右に隨身像を安置しています。各所に唐様、和様の手法をとりいれ複雑な斗組で構成しています。2階正面中央に、妙法院宮堯然親王筆の「東照宮」の扁額が掲げられています。昭和28年(1953)国の重要文化財に指定されています。
東照宮随身門

 唐門は銅瓦葺きの1間1戸の向唐門形式です。正面に円柱、背面には角柱があり、花崗岩の基盤の上に建つ流麗な門です。昭和28年(1953)国の重要文化財に指定されています。
東照宮唐門
 透漆塗りで、扉には鳳凰、麒麟、唐獅子などの彫刻があります。天井と垂木の間、蟇股には牡丹の花、扉の綿板に紗綾形模様を彫出し、鳳凰、麒麟、唐獅子の浮彫を付けています。また金箔も多くの部分に使われていて豪華です。
東照宮唐門

 本殿は御神体をお祀りする社殿の中で最も重要な建物で、内部は内陣と外陣に分かれています。桁行3間、梁間2間、1重の入母屋造り、銅瓦葺きで向拝1間つけています。欅の木目を現した透漆塗りで内外部とも塗装を施しています。昭和28年(1953)国の重要文化財に指定されています。
東照宮本殿
 縁、高蘭などは朱漆塗、外部板安部と床は黒漆塗を施しています。蛙股には松に鷹の彫刻、5ケ所の扉には、天女、龍、唐獅子を浮き彫りし、各所に精巧な鍍金金具を付けています。彫刻には金箔押や生彩色を施し、伊達文化の粋を結集しています。
東照宮本殿

 透塀(すきべい)は透漆(すきうるし)塗りで一周延44間(79.4m)で本殿を囲んでいます。銅瓦葺きで一定間隔に格子を取り付けた連子窓を付け、腰壁には桟をたすき状に配しています。襷文は黒漆塗りで、長押には錺金具を付けています。昭和28年(1953)国の重要文化財に指定されています。
東照宮透塀

 手水舎(ちょうずや)は一間一間、切妻造り、桟瓦葺き、素木造りの簡素な建物です。屋内にある花崗岩製の水盤は宮城県の文化財に指定されています。
東照宮手水舎
 幣拝殿は昭和10年(1935)8月に失火により焼失してしまいましたが、昭和39年(1964)11月、原型に復元され現在に至っています。入母屋造り、銅瓦葺き、桁行き3間、梁間2間で、本殿とは別棟に配されています。
東照宮幣拝殿



大崎八幡宮
おおさきはちまんぐう
宮城県仙台市青葉区八幡4丁目6ー1
Tel 022-234-3606
 大崎八幡宮は坂上田村麻呂が宇佐神宮を鎮守府の胆沢城に勧請し鎮守府八幡宮と称したのが始まりとされます。室町時代に入り奥州管領であった大崎氏が遠田郡田尻町に遷座したことから大崎八幡宮と呼ばれるようになったそうです。
 大崎氏の滅亡後は伊達政宗が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、仙台開府後の慶長12年(1607)仙台城の乾(北西)の方角になる現在の地に伊達家古来からの成島八幡宮と合祀して遷座しました。
 乾の方角は、福門(天門)と呼ばれ、蔵や、福神様を祀ると、縁起が良いといわれる方角でした。社殿の造営は政宗の命により慶長9年(1604)から造営され、慶長14年頃完成したとみられています。
 豊臣家召抱えの梅村日向守家次・梅村三十郎頼次・刑部左衛門国次・鍛冶雅楽助吉家といった当代随一の巨匠、棟梁を招聘し、その手で造られた社殿は豪壮にして華麗な桃山建築に仕上げられました。
 国宝の社殿は瑞巌寺方丈や青葉城大広間などと同時期の慶長12年(1607)から3年を費やして造営したもので、本殿と拝殿の間を石ノ間で継ぎ合せた権現造りです。
 大崎八幡宮は仙台総鎮守として大勢の人から厄除け・除災招福や必勝・安産の神として篤く尊崇されています。仙台における「卦体神」という十二支の神を信仰する習俗において乾(戌亥)の守護神とされています。戌歳・亥歳生まれの人々からは特に崇敬されているそうです。

 長床(ながとこ)は建築年は不明ですが貞享3年(1686)に描かれた絵図に書かれている事から、本殿などと同時期に建てられたと思われます。桁行9間、梁間3間、入母屋造りのこけら葺きで、中央入口の上に軒唐破風をつけています。中央に通り土間があり、その両側の室は板敷の床となっています。
大崎八幡宮長床
 長床は社殿とは対象的な建物で、素木造りで彫刻や組物なども控えめで落ち着いた雰囲気です。長床は修験道における拝殿を指しますが、この建物は中央が通路になっている「割拝殿」の形式で、本殿の華やかさに比べて落ち着いた様相を呈しています。長床としては宮城県最古の遺構で、国の重要文化財に指定されています。
大崎八幡宮長床

 国宝の大崎八幡宮の社殿は拝殿、石の間、本殿と繋がる権現造りの社殿です。本殿は桁行5間、梁間3間、1重、入母屋造り、こけら葺きです。石の間は東西方向5間、南北方向2間、1重、両下造り、こけら葺きです。拝殿は桁行正面7間、背面5間、梁間3間、1重、入母屋造りで正面に大きな千鳥破風がつき、5間向拝には軒唐破風がつけられ、こけら葺きになっています。
大崎八幡宮拝殿・本殿
  豊臣家召抱えの梅村日向守家次・梅村三十郎頼次・刑部左衛門国次・鍛冶雅楽助吉家といった当世随一の巨匠を招き造営されました。外観は長押上に鮮やかな胡粉極彩色の組物(斗きょう)や彫刻物を施し、下は総黒漆塗りと落ち着いた風格です。組物や彫刻は極彩色や金箔などで仕上げられ桃山文化を継承しています。
大崎八幡宮拝殿・本殿

 寛文8年(1668)4代藩主伊達綱村によって寄進された鳥居です。旧領であった東山郷(現岩手県一関市東山町)から産出した御影石が使用されています。県の有形文化財に指定されています。
ニ之鳥居



瑞鳳殿(伊達政宗御廟)
ずいほうでん(だてまさむねごびょう)
宮城県仙台市青葉区霊屋下23-2
Tel 022-262-6250
 瑞鳳殿は経ケ峯の中腹、瑞鳳寺の奥の深い木立に中にあります。寛永3年(1626)に70歳の生涯を閉じた伊達政宗の廟所です。涅槃門、割拝殿を過ぎた一番奥に豪華絢爛たる桃山建築の瑞鳳殿があります。
 寛永14年(1637)2代藩主伊達忠宗が政宗の遺命により、菩提寺である瑞鳳寺と共に瑞鳳殿を造営しました。瑞鳳殿の建物は伊達藩内に数ある霊廟建築の中で最高傑作とされ、様々な彫刻に極彩色が彩られ桃山建築を継承する豪華絢爛なものでした。
 昭和6年(1931)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の仙台大空襲により焼失してしまいました。現在の建物は昭和54年(1979)に再建されたものです。平成13年(2001)には改修工事が行われ、より創建当時に近い美しい姿となりました。
 2代藩主忠宗を祀る感仙殿(昭和6年国宝指定)、3代藩主綱宗を祀る善応殿も瑞鳳殿と同じ桃山建築の華麗なものでしたが戦争で焼失し昭和60年(1985)に再建しています。
 境内には11代藩主斉義夫妻の墓所である妙雲界廟や5代藩主吉村以後歴代藩主公子公女の墓所である御子様御廟があり、一帯が仙台市指定史跡となっています。 瑞鳳殿の脇には伊達政宗に従って殉死した家臣と陪臣20名の供養塔があります。



瑞鳳寺
ずいほうじ
宮城県仙台市青葉区霊屋下23−5
 Tel 022−222−2389
 正宗山瑞鳳寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。寛永14年(1637)仙台藩2代藩主伊達忠宗によって、藩祖伊達政宗廟の瑞鳳殿とともに政宗の菩提寺として香華院の院号で創建されました。開山は清岳、本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像です。
 広大な境内、荘厳な建物を誇っていましたが、何度か火災にあい、現在の本堂は大正15年(1925)に建築されたものです。境内には、藩主に殉じた家臣の墓や、戊辰戦争、西南戦争での戦死者の墓があります。
 梵鐘は伊達忠宗により寄進され、県指定の文化財となっています。総高158.6cm、直径99.9cmで「寛永4年(1627)早川弥兵衛利次」という鋳造銘が残っています。



陸奥国分寺
むつこくぶんじ
宮城県仙台市若林区木ノ下2丁目8ー28
Tel 022-291-2840
 護国山医王院陸奥国分寺は真言宗智山派のお寺です。天平13年(741)聖武天皇の勅願により建立され、わが国最北にある国分寺です。講堂、金堂、中門、南大門、七重の塔などの遺構があり、その規模は方800尺(242.4m)に及んでいたとみられます。
 平安時代まで陸奥国の財政的支持を受けて大伽藍を維持しましたが、室町時代には著しく衰微しました。17世紀初めに伊達政宗により再興されました。

 慶長12年(1607)薬師堂が再建されました。政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河宗次郎を招いて造らせた堂宇です。柱間5間の素木造りで勾欄付の縁をめぐらし、4面とも桟唐戸と連子窓を設けています。屋根は入母屋造り、本瓦葺きで向拝をつけ廻縁をまわしています。
陸奥国分寺薬師堂
 組物、装飾は簡素ですが素朴な力強さを持ち、同時代の大崎八幡宮の華麗さとは好対照をなす桃山建築です。本尊薬師如来像を治める家形厨子は堂内にあり、その周囲には十二神将、毘沙門天、不動明王、日光・月光菩薩を安置しています。陸奥国分寺薬師堂は明治36年(1903)に国の重要文化財に指定されています。
陸奥国分寺薬師堂



洞口家住宅
ほらぐちけじゅうたく
宮城県名取市大曲字中小路26
Tel 022-385-1908
 洞口家住宅は江戸時代中期に建てられた大型農家住宅です。敷地1500坪以上、周囲は幅3mの堀といぐね(防風林)に囲まれています。古くから「た てのい」、「たてやしき」と呼ばれる旧家です。
 入口には、明治21年(1888)に建てられた寄棟造り、茅葺きの立派な長屋門があり、馬屋もあります。主屋は寄棟造り、茅葺き、石場建て。桁行12間(25m)、梁間6間(11m)、床面積242平方m(約73坪)を有しています。
 主屋の建立時期は、祈とう札、年なわなどの資料、建築構造手法から、江戸時代の宝暦年間(1751-1763)とみられています。平面形は名取型(田ノ字型)を基本とし、この形式では旧仙台領内最大規模です。昭和46年(1971)国の重要文化財に指定されています。



旧中澤家住宅
きゅうなかざわけじゅうたく
宮城県名取市手倉田字山216ー93 十三塚公園内
Tel 022-384-0041
 旧中澤家住宅は名取市愛島塩手にあったものを現在地に移築したもので、建築年代は18世紀後半のものと推測されています。
 寄棟造り、茅葺き、石場立て、外面は大壁、内部は田の字型の4間取で、裏側の常居に当たる座敷と土間との境に仕切りがなく開放されています。名取型という名取一帯にはかなり古くからみられる型式です。
 土間には三本の独立柱が建ち、1本は「なかうし梁」を支えるための「うしもち柱」と称されるものと他の二本は入口に近い方を「ほいと柱」、奥の方を「よめかくし柱」と呼んでいます。旧中澤家住宅は昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されています。



船岡城址公園
ふなおかじょうしこうえん
宮城県柴田郡柴田町大字船岡館山
Tel 0224-55-2123
 船岡の町並みを見下ろす館山(136m)の頂上にあり白石川をへだてて韮神山に相対していて、東街道を押さえる要所に位置します。前九年の役では源頼義、義家の陣所になったところです。
 戦国時代、伊達稙宗の部下の四保定朝(しのうさだとも)が城の規模を拡張しました。定朝の子、宗義の時に柴田と改名し天文年間から文禄2年(1593)まで居城にしました。寛文11年(1671)原田甲斐による伊達騒動の舞台でもあります。園内には山本周五郎の小説「樅の木は残った」のモデルとなった樅の木もあります。。
 寛文10年、保守派の伊達安芸宗重らは幼い藩主伊達綱村を擁する伊達一門筆頭の伊達兵部宗勝一派が悪政を行っていると幕府に訴えました。幕府から老中板倉重矩が派遣されて、取り調べる事態になりました。伊達兵部派の家老原田甲斐宗輔は取り調べを終えて控え室に戻ってから伊達安芸を斬ったのです。
 原田甲斐も騒ぎに気づいて駆けつけた酒井家の家臣に斬られ、居合わせた関係者のほとんどが死亡して問題の追求が不可能になりました。この結果、原田甲斐の家は断絶とされその息子達も死罪、生き残った伊達兵部は土佐に流されますが、仙台藩62万石にはお咎めなしとなります。これが世に有名な「伊達騒動」です。
  原田氏改易の後は再び柴田氏が城主となり明治維新まで続きました。戊辰戦争の時、白鳥を神として崇めていたこの地で官軍の兵が白鳥を射殺しました。それを見た柴田氏家臣は大いに怒り、その兵を射殺するという事件も起こっています。官軍はこの件で仙台藩を責め、責任を感じた柴田氏は切腹して果てたそうです。
 明治2年(1869)の火災で建物は一切なくなりました。その後15ヘクタールの広い公園として整備されました。現在園内には明治40年(1907)に植えられた老木80本を含む総本数1000本の桜が咲き乱れます。「さくら名所100選」に県内でただ1ヶ所選ばれています。



白石川一目千本桜
しろいしがわひとめせんぼんざくら
宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬白石川堤防
 白石川堤の桜は、10数kmにわたる並木で、「一目千本桜」として有名です。白石川の川面に映る桜並木と、残雪を頂く蔵王連峰のコントラストは絶景です。夜桜を照らす光により川面に映る桜花は幽玄の極みです。
 約1200本の「桜のトンネル」のうち3分の1は樹齢80年を越えているそうです。秋には、県下唯一の菊人形まつりと県大菊花展が開かれ、県内外から多くの観光客が訪れます。





白石城
しろいしじょう
宮城県白石市益岡町1−16
Tel 0224-24-3030
 白石城は白石の街並みを東に見下ろす、標高76mの益岡公園の中にあります。奥羽越列藩同盟締結地として明治維新の歴史の一コマを飾った城でもあります。城郭は明治7年(1874)解体されましたが平成7年(1995)復元されています。
 白石城の歴史は古く苅田氏が居館を築いたのが始まりです。寛治5年(1091)藤原秀郷から5代目の藤原経清の次男経元は後三年の役で源義家に従って奥州清原氏を討伐しました。その功績により、苅田と伊具の2郡を与えられ、姓も苅田と改名したそうです。
 苅田氏5代秀長は源頼朝の奥州征伐に従軍しました。そして白石と改名しました。その後、戦国時代には伊達氏の勢力下に入りました。天正19年(1591)豊臣秀吉はこの地を会津若松城主であった蒲生氏郷に与えました。
 慶長3年(1598)蒲生氏郷の子秀行が宇都宮へ移封されると、会津若松には越後より上杉景勝が入封しました。景勝は甘粕景継を白石城代として治めました。
 慶長5年(1600)徳川家康の上杉景勝討伐の命を受けた伊達政宗が白石城を攻略し、白石は再び伊達氏の領地となったのです。城主には重臣片倉小十郎景綱が任ぜられました。
 一国一城令以後も、仙台伊達藩は特別に仙台城と白石城の2城が許され、片倉氏は伊達氏の陪臣ながら白石城主として1万7千石を与えられ、代々世襲して明治維新を迎えました。



旧小関家武家屋敷
きゅうおぜきけぶけやしき
宮城県白石市西益岡町6−52
Tel 0224-24-2162
 白石城の外堀を兼ねた沢端川の流れに沿って、城下町時代の面影を伝える数棟の武家屋敷が軒を連ねています。享保15年(1730)に建築された旧小関家の武家屋敷が公開されています。
  中級武士の小関家は奥方用人として活躍した片倉家の家臣です。平成3年(1992)小関家から白石市に主屋・門・塀が寄贈されたのを機に、全面的に修復されました。
 主屋の屋根は茅葺きの寄棟造り。茶の間、納戸、座敷を配した「広間型三間取」といわれる簡素な間取りです。古民家と大差なく、農民住宅を基本に武士の住宅として体裁を整えてくる過渡期的な形態を示しています。



旧佐藤家住宅
きゅうさとうけじゅうたく
宮城県角田市(かくだし)高倉字寺前50
 旧佐藤家住宅は高蔵寺の境内、阿弥陀堂の左手にあります。この住宅は、江戸時代中期(18世紀中頃)のもので、仙台領内中農家(本百姓)の家屋の典型とされています。高倉字新町に建てられていましたが昭和47年(1972)に移築され復元しています。
 間口16m、奥行10mの直屋様式をとり、屋根は寄棟造りの茅葺です。この頃の農家の基本的な間取りの一つである広間型3間取の単純な構成になっています。馬屋はなく、土間が全体の4割を占めています。
 東北の農家らしい重々しいつくりで、太い粗削りの柱は、鳥居建てという古式の構造であり、木材の曲がりを巧妙に利用した柱や梁からなっています。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。



高蔵寺阿弥陀堂
こうぞうじあみだどう
宮城県角田市(かくだし)高倉字寺前49
Tel 0224−65−2038
 高蔵寺は弘仁10年(819)、徳一(とくいち)の開山と伝えられ、治承元年(1777)、聖円が中興したそうです。建武2年(1335)、北畠顕家(あきいえ)が国宣を受けて堂宇の大修理を行いました。
 永正2年(1505)の火事で本堂の他ほとんどの堂坊を失いました。慶長13年(1608)には寺領を没収され寺運は衰えました。治承元年(1177)に建立された阿弥陀堂だけは、度々の災厄をまぬかれ、数回に及ぶ小修理を経て今日にいたっています。
 阿弥陀堂は、桁行3間、梁間3間、1重、宝形造りの茅葺きです。貞享4年(1687)と享保17年(1731)の修築を示す棟札が2枚残されています。構造は非常に簡素で、太い円柱が厚い茅葺き屋根と大きな棟を支え、組物は舟肘木(ふなひじき)だけです。内部の天井や虹梁も、平安時代の作風です。
 高蔵寺阿弥陀堂は宮城県内最古の木造建築物とされており、明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。平安後期に造られた高さ約2.7mの本尊・木造阿弥陀如来座像も、国の重要文化財に指定されています。


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