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盛岡
 東から中津川、西から雫石川が流れ込む合流点にあります。奥羽山系の主峰岩手山を北西に望み「東北の京都」「杜の都」呼ばれる城下町です。



岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校)旧本館
いわてだいがくのうがくぶ(きゅうもりおかこうとうのうりんがっこう)きゅうほんかん
岩手県盛岡市上田3丁目18−8
Tel 019-621-6260
 岩手大学農学部旧本館は大正元年(1912)12月に盛岡高等農林学校の本館として建てられました。青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造2階建ての欧風建築物で、2階は全体が講堂で、1階は、校長室、事務室、食堂などになっていました。
 昭和49年(1974)大学が現在地に移転後、傷みがひどくなったため、昭和52年(1977)に修復を行い、翌年から岩手大学農学部附属農業教育資料館として使用されています。また、平成6年(1994)10月にも大修復がなされました。
 この旧本館は、明治期に設置された国立専門学校の中心施設として現存する数少ない遺構の一つです。建築当時の姿をそのまま留めていて、保存状態も良好であることから、門番所とともに国の重要文化財に措定されました。

 旧盛岡高等農林学校門番所は明治36年(1903)盛岡高等農林学校の正門(現在の通用門)に建てられた「寄せ棟風八角」の造りで、建築文化にとって価値ある明治の建物です。
旧盛岡高等農林学校門番所
 この門番所は、本館の竣工により、現在地に移築されました。この門番所と旧正門も同時期の学校施設として価値が認められ、旧本館とともに国の重要文化財に指定されました。
旧盛岡高等農林学校門番所



岩手公園
いわてこうえん
岩手県盛岡市内丸1−6
 「三日月の丸くなるまで南部領」と領地の広大さを誇った南部藩20万石の城下町です。盛岡城跡の石垣は、盛岡産の花崗岩を積み上げたもので、東北3三城跡のひとつとして知られ今は岩手公園になっています。
 盛岡の地は旧名を不来方(こずかた)といい、南北朝時代には工藤氏が支配していました。その後、北奥州統一を目指す南部氏によって攻略されました。
 南部氏は甲斐源氏の流れをくむ糠部の地頭の南部光行が祖です。三戸南部氏と八戸南部氏の二つの勢力がありましたが、室町時代中期の康正年間(1455-1456)以後、三戸南部氏の勢力が強くなりました。
 戦国時代に入って、南部氏26代の当主の南部信直の時代に南部氏宗家の基盤が固まりました。小田原征伐の際、信直は津軽為信に一歩遅れ津軽の独立を許したものの、秀吉に取り入り本領7郡を安堵されました。
 天正19年(1591)南部氏一族の九戸城主九戸政実(くのへまさざね)が反乱を起こします。信直は秀吉軍の援助のもとに政実を攻略します。乱後、信直は新たに3郡を与えられて10万石となり、居城を三戸城から九戸城に移し、城の名を福岡城と改めました。
信直は地理的に不利な福岡城から北上川と中津川の合流地点の要害の地・不来方の地に新城を築くこととし、慶長2年(1597)に鋤初め(すきはじめ)、翌3年に豊臣秀吉より正式に盛岡城の築城普請を許可され、築城工事が進められました。
 南部信直の嫡男利直は慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で徳川家康側に属したために本領を安堵され、父の後を引き継いで築城工事を進め、不来方を「盛り上がり栄える岡」になるようにとの願いを込めて盛岡と改名しました。
 盛岡城が完成したのは利直の後を継いだ利直の三男重直の時です。寛永10年(1633)で、実に40年あまりかけたことになります。
 二の丸跡には「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」という石川啄木の歌碑が建っています。また、岩手公園東側には宮沢賢治の格調高い文語詩『岩手公園』の碑文もあります。



報徳寺
ほうおんじ
岩手県盛岡市名須川町31−15
Tel 019-651-4415
 瑞鳩峰山報恩寺(ほうおんじ)は曹洞宗のお寺で、盛岡五山の一つです。応永元年(1394)に南部家13代南部守行により、陸奥国三戸郡に創建されたと伝えられています。
 慶長6年(1601)南部家27代南部利直の時、盛岡に移封のため、報恩寺も現在地に移り、南部領内208カ寺の総領となりました。本堂は嘉永4年(1851)に改築されたもので、羅漢堂は享保20年(1735)に建てられた平屋建て、土蔵造りの建物です。
 五百羅漢は報恩寺の羅漢堂に納められた尊像で、499体が現存しています。羅漢堂の中は四方の壁が棚になっていて、そこにびっしりと羅漢、つまり仏教行者の像が何段にも並んでいます。
 これらの像は胎内の墨書銘から、享保16年(1731)報恩寺17代和尚が造立したもので、京都の仏師が9人掛かりで4年間かけて造ったそうです。全て寄せ木造り、漆塗りで、像の中にはマルコポーロ、フビライなども含まれています。羅漢堂と五百羅漢は盛岡市指定有形文化財になっています。
 石川啄木がまだ盛岡中学の学生だったころ、この北山一帯の風光をこよなく愛し、級友とよく散策したといわれています。詩集「あこがれ」の中の「落瓦の賦」は報恩寺をうたったものです。
 宮沢賢治も 盛岡高等農林学校時代に報恩寺で参禅したりして報恩寺を訪れています。



盛岡八幡宮
岩手県盛岡市八幡町13ー1
Tel 019-652-5211
 盛岡八幡宮の創建は康平5年(1062)前九年合戦の時、源頼義・義家父子が戦勝祈願した事が始まりとされています。延宝8年(1680)、南部氏第29代南部重信藩主が領内守護の総氏神として大社殿を造営しました。
 重信は青森から南部氏の崇敬社であった櫛引八幡を盛岡城下である現在地に遷座させ「新八幡」としました。維新後、盛岡城は廃城となり、城内にあった鳩森八幡宮が櫛引八幡と合祀する形で遷座し、さらに明治22年(1889)に白山神社を合祀しました。
 明治17年(1884)の盛岡大火などの災害や永年の風雪被害を受けて社殿は幾度か再建されました。現在の社殿は平成9年(1997)に再建されたものです。境内には盛岡指定文化財の青銅灯篭や延暦期に坂上田村麻呂が建立したという神明社、笠森稲荷神社、岩手護国神社などがあります。
 盛岡八幡宮は県下一の大社で、多くの参拝者で賑わっています。チャグチャグ馬コや流鏑馬などの神事が受け継がれていて盛岡総鎮守として広く信仰の対象となっています。



岩手護国神社
いわてごこくじんじゃ
岩手県盛岡市八幡町13−1
Tel 019-652-5211
 岩手護国神社は明治2年(1869)南部藩15代の最後の藩主、県知事でもあった南部利恭によって創建されました。最初は岩手郡東茶野畑(盛岡市内)に鎮座していましたが明治39年(1906)盛岡八幡宮境内に遷座されました。
 昭和14年(1939)に招魂社から「岩手護国神社」と名称を変えました。盛岡藩士の目時隆之進や中島源蔵、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などの戦没者約35800柱を祀っています。



岩手銀行旧本店本館(旧盛岡銀行)
いわてぎんこうきゅうほんてん(きゅうもりおかぎんこう)
岩手県盛岡市中ノ橋通1−2−20
Tel 019-654-5571
 旧岩手銀行旧本店本館は昭和6年(1931)の岩手県金融恐慌で破綻した盛岡銀行の建てた建物です。明治44年(1911)、交差点を向いた正面にドームを頂いた市中心街のランドマーク的建築として建てられました。
 赤レンガ造り2階建て(一部3階)、屋根は銅板葺きでドーム部分のみスレート葺きになっています。設計は東京駅を設計した辰野金吾氏と盛岡出身の工学士・葛西萬司です。ルネッサンス様式で、辰野式と呼ばれる赤れんがにアクセント効果を与える白色花こう岩の帯とドーム屋根の組み合わせが印象的です。
 建物正面は六角形の平面でこの部分だけが3階となっています。柱飾りやレリーフなどの意匠に凝っていて、正面性を出し、屋根にはドーマをつけて印象深い建物にしています。
 窓は縦長を基調とし1階は小庇、2階は上部をファンライトと呼ばれる半円形の欄間として変化をつけています。明治の貴重な建物として国の重要文化財に指定されています。



岩手県立博物館
いわてけんりつはくぶつかん
岩手県盛岡市上田字松屋敷34
Tel 019-661-2831
 岩手県立博物館は岩手県の県制百年を記念して昭和55年(1980)10月に開館した総合博物館です。総合展示室では岩手の歴史を時代の流れに沿ってテーマ別に展示しています。
 分類展示室では動物や地質などの自然や、考古・民俗などを各分野に分けて展示しています。近代美術展示室では岩手県ゆかりの画家や彫刻家の作品を展示しています。特に萬鉄五郎の作品や遺品は約1600点に及んでいます。
 屋外には国の重要文化財に指定されている旧佐々木家住宅、旧藤野家住宅を展示しています。江戸後期に建てられた曲り家・直家で移築復元されたものです。また、県内の草木と岩石を集めた植物園と岩石園もあります。



旧佐々木家住宅
きゅうささきけじゅうたく
岩手県盛岡市上田字松屋敷34 岩手県立博物館内
Tel 019-661-2831
 旧佐々木家住宅は下閉伊郡岩泉町大字岩泉字指畑にあった曲り家の農家建築です。佐々木家は藩政時代、岩泉村の肝煎(今の村長)を務めていました。現在、岩手県立博物館に移築、復元されています。
 建物は約64坪で、この地方としては標準的な規模です。建築年代は19世紀後半頃と推定されています。岩手県北地方の農家の比較的古い形式で建てられています。柱には栗材を用い、チョウナなどを使って仕上げています。
 曲り家は、岩手県の旧南部領に分布する民家のひとつの形式で、曲りの部分はまや(馬屋)として使われました。旧佐々木家住宅は、国の重要文化財に指定されています。



旧藤野家住宅
きゅうふじのけじゅうたく
岩手県盛岡市上田字松屋敷34 岩手県立博物館内
Tel 019-661-2831
 旧藤野家住宅は岩手県江刺市伊手にあった直屋(すごや)とよばれる農家建築で、岩手県立博物館に移築、復元されています。直屋は一般的な長方形の住宅で、仙台藩領と二戸・九戸地方に多い農家の建て方です。
 旧藤野家住宅は19世紀前半に建てられたとみられ、当初からほとんど改修されず、江刺地方の典型的な平面構成をしています。土間側妻を寄棟造り、座敷側妻を入母屋造りとしています。
 建坪は40坪と比較的小規模で、向って左側に玄関があり「にわ」と呼ばれる土間空間があり、右側に「おかみ」、「なかま」、「なんど」、「でえ」と呼ばれる板敷きの部屋が喰い違いで構成されています。昭和53年(1978)国の重要文化財に指定されています。



旧中村家住宅
岩手県盛岡市愛宕町14−1
(盛岡市中央公民館敷地内)
Tel 019-654-5366
 旧中村家住宅は文久元年(1861)に建てられた盛岡市中央公民館構内にある商家です。盛岡市南大通(新穀町)に建てられていましたが中村七三氏から寄贈を受け、移築、復元された町屋建築です。
 中村家は「糸屋」または「糸治」と呼ばれ、呉服・古着などを主に商っていたようです。初代は天明2年(1782)から盛岡で商売をはじめ、2代目の時から「糸屋」を称するようになり盛岡藩の特産である紫根染を一手に商うなどして発展し領内指折りの豪商となりました。
  主屋は文久元年(1861)頃に建てられました。木造1部2階建て、切妻平入り、瓦葺きです。1階には雪国によく見られる「こみせ」のような土間空間が「みせ」前にあり、風雪を避けるように造られています。
 建物の外壁には隣家への防火対策としてこの地方独特な「うだつ」が上がっています。壁一面、土壁で仕上げ、2階屋根の上まで壁を延ばしています。主屋、土蔵、はかりばが国の重要文化財に指定されています。



啄木新婚の家
たくぼくしんこんのいえ
岩手県盛岡市中央通3−17−18
Tel 019-624-2193
 石川啄木新婚の家は明治38年(1905)、中学時代からの友人節子と結婚した家で、新妻ばかりでなく両親と妹と共にわずか3週間だけ暮らした家です。
 結婚式を前に婚約者の掘合節子は啄木を待っていました。しかし啄木は姿を見せなかったため、級友で画家の上野宏一の晩酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」がこの家で行われたそうです。
 その後、20歳の啄木はこの家で3週間新婚生活を送りました。この家で稿を起こした随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上の掲載されました。「我が四畳半」には新婚の夢あたたかな情景を描いています。



小岩井農場
こいわいのうじょう
岩手県岩手郡雫石町丸谷地36−1
Tel 019-692-4321
 小岩井農場は日本初の西洋式近代農場です。ここを題材に賢治先生は、長編詩「小岩井農場」を書いています。
 総面積3000ha。正面に岩手山を望み、緑一色に染められた大地に牛が戯れています。小野義真、岩崎彌之助、井上勝により明治24年(1891)創業。創業者三名の頭文字から「小岩井」と命名されました。



伝承園
でんしょうえん
岩手県遠野市土淵町土淵6−5−1
Tel 0198-62-8655
 伝承園には国の重要文化財・南部曲り家やワラ細工などの体験もできる工芸館、養蚕の神様とされるオシラサマ約1000体を祀る御蚕神堂などがあります。オシラサマは桑の木に人間や馬の顔を彫り、色とりどりの衣をまとっています。
 柳田国男に「遠野物語」を語って聞かせたという佐々木喜善の記念館などもあります。
 若い女性が飼っていた馬と恋に落ち、それを怒った父親が馬を殺してしまいます。悲しんだ娘は馬の皮とともに天に昇ってしまいました。後に蚕が残されました。これが養蚕の神様・オシラサマの伝説です。



千葉家住宅
ちばけじゅうたく
岩手県遠野市綾織町上綾織1地割14
Tel 0198-62-9529
 千葉家住宅は200年ほど前に建てられた南部曲り家で「日本10大民家」の一つにも数え上げられています。曲り家とは江戸時代の南部地方特有の建てかたで、住居と馬屋を平面L字形に連結した農家建築です。
 見晴らしの良い小高い丘の中腹に石垣を築いて建てられています。江戸時代後期の建築で、540平方mの大型の家の中で25名の人と20頭の馬が一緒に生活していたそうです。現在も住居として使われています。
 曲り家の最盛期に建てられ、保存状態も良く、上層農民の最高級の曲り家として典型的なものといわれます。主屋、土蔵、石蔵稲荷社、大工小屋が平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。



鍋倉城址
なべくらじょうせき
岩手県遠野市新町
 鍋倉城址は、遠野市街地の南側にある鍋倉山に築かれた中世末期の形を伝える山城です。平泉の藤原泰衡討伐に功をたてた阿曾沼広綱(あそぬまひろさと)は、源頼朝より和賀郡遠野13郷を与えられ関東から下向し、横田城(遠野市松崎町)を築きました。その後、横田城を鍋倉山に移しました。
 阿曾沼氏が家臣の謀反で滅亡すると、寛永4年(1627)、南部直義(なおよし)が八戸から遠野に国替えになり、横田城を修築して鍋倉城と改め、以後遠野南部氏1万2千5百石の居城となりました。



遠野市立博物館
とおのしりつはくぶつかん
岩手県遠野市東館町3−9
 柳田国男の『遠野物語』で有名な遠野に、1・2階が図書館、3階と4階の一部が博物館という複合施設として建てられました。「遠野物語の世界」「遠野の自然とくらし」「遠野の民俗学」など分けて展示されています。



福泉寺
ふくせんじ
岩手県遠野市松崎町駒木7地割57
Tel 0198-62-3822
 法門山福泉寺は真言宗豊山派のお寺です。創建は大正元年(1912)で木彫として日本最大の大観音像があることで有名です。総高17mの福徳観音像は、樹齢1200年の大木の一木造で、木彫として日本最大の観音像です。
  福泉寺の境内は20万平方mあり、春には桜、秋には紅葉の名所となります。山内には岩手県内唯一の四国八十八箇所と西国三十三箇所の写し霊場があります。



光勝寺
こうしょうじ
岩手県花巻市石鳥谷町五大堂11−49
Tel 0198-47-2230
 貴峰山光勝寺(こうしょうじ)は真言宗、豊山派のお寺です。宝蔵庫には町指定有形文化財の14体の仏像を収蔵しています。ここが有名なのは五大尊蘇民祭(ごだいそんそみんさい)が行われるお寺だからです。
 旧暦の正月7日(2月1日)1年間の無病息災を祈願した木札365枚を麻袋に入れ、守り札として奪い合い手にした者に幸福が訪れるという、800年以上前に始まったといわれる伝統行事です。
 蘇民祭は建久2年(1191)に始まったとされ、花巻市の無形民俗文化財に指定されています。昔は招福の護摩火餅の争奪だったそうですが、明治27年(1894)に梵字(ぼんじ)の文字と駒形の絵を記した板札を麻袋に入れ、群衆の中に投下する現在のやり方になったそうです。



熊谷家住宅
くまがいけじゅうたく
岩手県花巻市矢沢10−149−1
Tel 0198-23-5290
 熊谷家住宅は江戸後期、天保年間(1830-1844)頃にに建てられたと考えられる大型民家です。本屋は、寄棟造(よせむねづくり)の萱葺きの直家(すごや)です。(直屋は一般的な長方形の住宅です)
 間口約14間、桁行9.5間(馬屋を入れると12.5間)、奥行約7間、梁間6間です。上家の梁間は5間でかなり大きく、これを前後に3尺ずつ下屋に附した形です。
 熊谷家は、屋号を「酢屋」といい、幕末には製酢業を営み、矢沢村の肝入(きもいり)も勤めていました。熊谷家は盛岡藩の南辺(なんへん)地域の大型民家を今に伝える貴重な建物で主屋、土蔵2、便所、 小屋、屋敷神が花巻市有形文化財に指定されています。



花巻市博物館
はなまきしはくぶつか
岩手県花巻市高松第26地割8−1
Tel 0198-32-1030
 花巻市博物館は平成16年(2004)4月に宮澤賢治記念館の丘の下、宮沢賢治童話村の隣に開館しました。考古、歴史、美術・工芸の3つに分けて稗貫・和賀を含む花巻の歴史と文化をわかりやすく展示・解説しています。
 花巻市は、江戸時代、盛岡藩の南の要塞として花巻城が置かれ、南部藩の重臣・北秀愛と北松斎の城代によって今日の花巻の基礎が築かれました。奥州街道を城下町に引き込み四日町や一日市、里川口を商人町として周囲から商人を集め、経済的基盤を確立させたのです。
 盛岡藩時代の甲冑、武具、江戸時代の町並みを再現したミニチュア、敷地内から出土した約140万年前のアケボノゾウの足跡化石レプリカなどが展示され、稗貫郡里川口村(花巻市)の質・古着商の息子として生を受け、花巻市で亡くなった宮沢賢治のコーナーもあります。



宮沢賢治記念館
みやざわけんじきねんかん
岩手県花巻市矢沢1−1−36
Tel 0198-31-2319
 宮沢賢治記念館は昭和57年(1982)9月にオープンしました。稗貫郡里川口村(花巻市)の質・古着商の息子として生まれた賢治がよく散歩した胡四王山(こしおうざん)の中腹の緑豊かな林の中に、モダンな記念館は建っています。
 宮沢賢治は詩人、童話作家、農民、教師、宗教家、地質学者であっただけでなく絵画、肥料設計、音楽、エスペラント語研究、など多方面にわたる足跡を残した人です。
 展示は、宮沢賢治をめぐるその環境・信仰・科学・芸術・農村・総合・資料展示の7部門からなり、愛用していたチェロ、自筆の原稿など、多くの資料や展示品も並んでいます。また、宮沢賢治イーハトーブ館には、賢治に関連した様々なジャンルの芸術作品なども並んでいます。



花巻新渡戸記念館
はなまきにとべきねんかん
岩手県花巻市高松第9地割21
Tel 0198-31-2120
 5千円札の肖像画で有名な新渡戸稲造は、日本人初の農学博士で生涯を国際平和と教育に尽くした人物です。花巻新渡戸記念館は稲造と、その祖先の新渡戸氏の功績を紹介し、ゆかりの品々を展示しています。
 この地を拠点に220余年にわたり地域に貢献してきた武士の名門、新渡戸氏は江戸時代の新田開発などで地域に大きく貢献しました。記念館はその屋敷跡に建てられています。
  常設展示室には、「武将としての新渡戸氏」 「新渡戸氏と信仰」 「新渡戸氏と新田開発」を3本柱として、甲冑・刀・槍などの資料や、映像・PCクイズ・ジオラマ模型などを展示しています。新渡戸稲造展示室には、稲造の生涯と名著「武士道」の解説パネルを展示しています。



成島熊野神社
なるしまくまのじんじゃ
岩手県花巻市東和町北成島5−1
Tel 0198-42-3921
 成島熊野神社は延歴22年(803)坂上田村麻呂が奥州侵攻の際に、紀伊の熊野三山に戦勝祈願をし、無事、平定できたことで創建されたと伝えられています。境内には重要文化財の成島毘沙門堂があります。
 康平5年(1062)源義家が安倍貞任を追撃しここに立ち寄った時、熊野神社に鏑矢を収めて戦勝祈願をしました。そして安倍氏を破り奥羽を平定する事ができたと伝えられています。
 本殿は、向拝流棟造りで、御祭神は熊野の三神で伊弉冉之命、事解男之命、速玉男之命を祀っています。県内では数少ない古代建築様式をもつ建造物であることから昭和54年(1979)に県の有形文化財に指定されています。
 熊野神社には十二番角力式(泣き相撲)と言われる奇祭が伝わっていて市指定無形民俗文化財となっています。9月19日の例祭に、田村麻呂の故事に始まる「泣き相撲」が行われます。神社氏子の長男で、数え2歳の幼児による泣き相撲で、泣いた方が負けとされています。



成島毘沙門堂
なるしまびしゃもんどう
岩手県花巻市東和町北成島5−1
Tel 0198-42-3921
 成島熊野神社境内に成島毘沙門堂があります。もと「成島寺」と称した寺院の名残りで、坂上田村麻呂、円仁の開基と伝えられています。方三間、寄棟造り、鉄板葺き(もと茅葺き)の仏堂です。
 毘沙門堂は、多くの貴重な仏像を奉るために建てられたお堂で、古くから地域の人々の信仰を集めています。以前は、堂内に国指定重要文化財の彫刻「木造毘沙門天立像」「木造伝吉祥天立像」が奉られていました。今は収蔵庫に移されています。
 木造毘沙門天立像は高さ4.73mで岩手県内で最も大きな仏像で、ケヤキの1本彫成仏としては日本一の像です。東北地方を平定した後、四天王の一つ北方世界の守護神である毘沙門天(多聞天)を作ったものです。
 毘沙門堂は延宝元年(1673)に修理をしていますが、各部の仕上げや建築手法などから室町時代後期に建立されたものといわれています。岩手県内で数少ない中世の平成2年(1990)建物として、国の重要文化財に指定されました。



旧小原家住宅
きゅうおばらけじゅうたく
岩手県花巻市東和町谷内6−37
Tel 0198-44-2800
 旧小原家住宅は藩政時代の一般農家の住宅で、18世紀中頃に建てられたものと推定されています。建物は南部地方独特の曲り屋で、外周りの壁が多く、上屋根(うわやね)の柱がきちんとあって太く、この地方の民家の特徴を表しています。
 間口16.3m、奥行9.6mの母屋に3間4方の馬屋を突き出し、大戸口は曲り部分の内側に付いています。馬屋の部分が小さいことから、曲り屋としては古いタイプです。
 家畜を大切にし、一つ屋根の下でともに暮らした「南部曲り家」の発生過程を知ることができる価値のある民家で、国の重要文化財に指定されています。



みちのく民俗村
岩手県立花14地割59
Tel 0197-64-1756
 みちのく民俗村は展勝地山手の7万平方mの丘陵と谷に、北上川流域の古い民家や歴史的建造物を復元公開しています。江戸時代に建てられた南部曲り屋や明治中期の民家など古建築20棟以上建てられています。
 民俗村導入ゾーン、南部伊達領境ゾーン、北上川流域古民家ゾーン、縄文時代と古代遺跡ゾーンの4ゾーンで構成され、別ゾーンに北上市立博物館と北上埋蔵文化財センターを併設しています。

 旧菅野家住宅は伊達藩の典型的平入り直家(すごや)造りの農家です。主屋は享保13年(1728)、藥医門は享保5年(1720)に建てられています。北上市口内町長洞の通称中村屋敷と呼ばれた菅野助治から寄贈され移築したものです。
旧菅野家住宅
 表11間、奥行6間で半分が土間で占められています。障子の作りは古風で、土間の表柱、大壁、内柱などに肝入(きもいり)以上の家宅の風格があります。主屋と表門が国の重要文化財に指定されています。
旧菅野家住宅

 旧岩手県立黒沢尻高等女学校校舎は洋風建築の流れをくむモダンな建物です。昭和2年(1927)に現在の北上市鍛冶町に建てられた校舎です。
県立黒沢尻高等女学校校舎
  新校舎建設に伴い解体されることになりました。同窓会の働きかけにより昭和53年(1917)みちのく民俗村内に移築・復元され、民俗資料館として活用されています。
県立黒沢尻高等女学校校舎

 旧菅原家住宅は明治時代後期の建築で、湯田・沢内地方の一般的な構造と間取りをもつ中規模農家建築です。
旧菅原家住宅
 豪雪に耐えるように柱の多い頑丈な造りになっています。梁で軒を支える「せがい造り」で軒先が高くなっています。
旧菅原家住宅

 旧星川家住宅は江戸時代後期の建物です。紫波郡(しわぐん)矢巾町北伝法寺にあった南部曲り家です。星川家の場合、主屋に対し、馬屋が遅れて取り付けられています。
旧星川家住宅
 曲り家はL字型になっています。人が住む母屋と馬小屋がつながっている住居で、馬はかけがえのない人間の友であり、同じ屋根の下で暮らしていました。
旧星川家住宅

 旧北川家住宅は江戸時代中期の初期の曲り家で、遠野市土淵町大字栃内字火石に建てられていました。多くの民話が語り継がれた家で、オシラサマを祀る家としても知られていました。
旧北川家住宅
 北川家は明治43年に発表された「遠野物語」で「土淵村の助役北川清と云う人は字火石に在り」と紹介されています。
旧北川家住宅

 ませ小屋は北上市立花字橘内にあったもので、明治9年(1876)に作られたものです。麦、アワ、稲、豆などを外回りの桟にかけて乾燥させ、中で脱穀する農作業小屋です。
ませ小屋

 長屋門風演舞場です。昔ながらの芝居など興業が行われたりします。
長屋門風演舞場

 がん小屋は葬式にかかわる諸道具を納めておく小屋です。土葬が一般的であった時代には、各集落に1戸は建てられて共同利用されていたそうです。北上市二子町上川端に建てられていたものです。
がん小屋

 旧菅原家住宅は東磐井郡(ひがしいわいぐん)川崎村薄衣字賽の神に建てられていました。江戸時代中期の農家で、主屋は59.4坪、長屋門は15.4坪です。
長屋門・旧菅原家住宅
 菅原家は旧姓を三浦といい、江戸時代は嵯峨峯屋敷と呼ばれた伊達藩の農家でした。屋敷から砂金が取れたとこから、敷地内に金烏神社を祀っていて、参拝者も多かったそうです。
長屋門・旧菅原家住宅

 旧今野家住宅はみちのく民俗村の受付になっています。梁川(江刺市)にあった建物で、江戸時代末期から明治初期の商家です。
旧今野家住宅

 旧佐々木家住宅は東磐井郡大東町渋民字続石にあった葉たばこ栽培農家です。江戸時代中期の建築で、主屋は37坪、馬屋は8.16坪です。
旧佐々木家住宅
 伊達藩のたばこ栽培はローマ特使の支倉常長が種子を持ち帰ったのが始まりとされています。大東たばこは御料たばことして毎年藩主に献上されていたそうです。
旧佐々木家住宅

 旧小野家住宅は岩手郡西根町谷地中にあった67.14坪の県北の直屋民家です。建てられたのは明治34年(1901)です。
旧小野家住宅
 内部は広い常居(座敷に次いで上等の部屋)、台所、土間、馬屋がほぼ一列に並んでいます。そのため細長い家になっています。
旧小野家住宅



旧菅野家住宅・薬医門
きゅうすがのけじゅうたく・やくいもん
岩手県北上市立花14地割59 みちのく民俗村内
Tel 0197-64-1756
 旧菅野家住宅は伊達藩の典型的平入り直家(すごや)造りの農家です。直家は曲り家と違い棟が直線型の家です。主屋は享保13年(1728)、薬医門は享保5年(1720)に建てられています。
 南部藩と境を接する北上市口内町長洞の通称中村屋敷と呼ばれた菅野助治から寄贈され「みちのく民俗村」内に移築したものです。
 間口21.3m、奥行11.6m、寄棟造り、茅葺きで半分が土間で占められています。障子の作りは古風で、土間の表柱、大壁、内柱などに大肝入(きもいり)以上の家宅の風格があります。
 旧菅野家住宅は岩手県内における建築年代の明らかな古民家の中では、最も古いもので、主屋と表門が昭和40年(1965)国の重要文化財に指定されています。



北上市立博物館
きたかみしりつはくぶつかん
岩手県北上市立花14地割59 みちのく民俗村内
Tel 0197-64-1756
 北上市立博物館はみちのく民俗村内にある博物館で、昭和48年(1973)4月にオープンしました。「北上川流域の自然と文化」をテーマに、「歴史展示」や「自然科学展示」「地質展示」とテーマ別に展示しています。
 博物館に入ると、最初に目に入るのは復元された大型帆船「ひらた船」です。「ひらた船」は南部藩最大の河川港としてにぎわった北上の象徴なのです。
 川と共に栄えてきた北上市は、古代から舟運による交易が盛んでした。北上の黒沢尻は北上川の中流の要地で、盛岡までの小型の船便と石巻までの大型の船便との重要な中継点だったのです。
 また、北上川流域に現在生息する鳥獣・昆虫類を紹介する自然科学や、化石・鉱物などの地質などを展示しています。藩政時代の資料や当時の生活を紹介するコーナーもあります。



岩谷堂共立病院
(明治記念館)
いわやどうきょうりつびょういん
(めいじきねんかん)
岩手県奥州市江刺区岩谷堂字向山42−1
 旧岩谷堂共立病院(明治記念館)は明治7年(1874)に竣工した洋風建築で、当時の凝洋建築物の典型の1つとして大変貴重な文化財です。昭和54年(1979)岩手県の有形文化財に指定されています。
 1階に中2階を設けた4階建てで、頂部に塔屋をのせています。この楼閣と八角形の塔屋が印象的です。縦長の窓を採用し洋風のモチーフを取り込んでいます。建物の組み方や納まりなどは在来工法でなされていて凝洋建築物と呼ばれています。
 岩谷堂共立病院はその後破綻し、明治21年(1888)から39年(1906)まで裁判所の岩谷堂出張所を経て、岩谷堂小学校、実科女学校、農業試験場、岩谷堂町役場、江刺市役所など公共施設として利用されました。
 現在は明治記念館として内部の見学ができるようになりました。菊田一夫の名作ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のモチーフとしても知られ、朝と夕方にそのメロディーが流れます。



旧後藤家住宅
きゅうごとうけじゅうたく
岩手県奥州市江刺区岩谷堂字向山
 旧後藤家住宅は、南部藩の曲家に対し、伊達藩の直屋として典型的な民家です。元禄年間から宝永年間(1688-1711)に建設されたものと推定されています。
 建物は、全体の半分を占める土間と、床上に二列の部屋を配した平面からなり、上・下屋からなる構造です。土間には、断面多角形の太い上屋柱が、林立しています。
 元は、江刺市広瀬の後藤勇次郎氏所有の建物で、後に江刺市に寄贈され、昭和42年(1967)8月、現在地である向山公園内に移築保存されることになりました。
 上屋と下屋の構造的役割が分かれているのは極めて珍しく、昭和40年(1965)国の重要文化財に指定されています。



後藤新平記念館
ごとうしんぺいきねんかん
岩手県奥州市水沢区大手町4ー1
Tel 0197-25-7870
 後藤新平記念館は関東大震災後の東京復興に多大な貢献をした政治家・後藤新平の偉業をたたえ、文書や写真、著訳書など新平の人柄と業績を伝える資料を幼少時代から晩年に至るまで幅広く展示しています。
 後藤新平は、医者でありながら、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、鉄道院総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長などを歴任しました。
 関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案しました。国家予算の約1年分という計画の規模の大きさから「大風呂敷」の異名もとりましたが、現在の東京の都市骨格を作り上げました。
 シチズン時計の名付け親でもある新平の母方の大叔父には著名な蘭学者・高野長英がいます。記念館の隣には新平の十三回忌に記念して親友の正力松太郎が恩に感じて贈った後藤伯記念公民館があります。日本で最初の「公民館」です。



後藤新平旧宅
ごとうしんぺいきゅうたく
岩手県奥州市水沢区吉小路8−1
Te0197-122-5642
 後藤新平旧宅は寄棟、茅葺きの江戸中期の武家住宅で、県の有形文化財に指定されています。主屋、厠と板倉、冠木門(かぶきもん)、笠塀などが残されていて水沢町に寄付されたものです。
 後藤新平は、医者でありながら、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、鉄道院総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長などを歴任しました。
 この付近は、江戸時代、「給主小路(きゅしゅこうじ)」とよばれ、大手小路に次いで上級家臣の武家屋敷がおかれたところです。後藤家は留守家御小姓頭(るすけおこしょうかしら)を勤め、新平は安政4年(1857)にこの家で生まれ、留守家奥小姓(おくこしょう)として幕末を迎えたそうです。
 後藤新平は生前、「水沢には墓をつくらないから墓代わりにあの家を長く残しておけ」と言い残したといわれています。



奥州市武家住宅資料館
(内田家旧宅)
おうしゅうしぶけじゅうたくしりょうかん
(うちだけきゅうたく)
岩手県奥州市水沢区吉小路43
Tel 0197-22-5642
 奥州市武家住宅資料館は内田家武家住宅を核に武家住宅資料センターを併設しています。資料センターでは貴重な資料が並ぶ歴史展示コーナーを見学することができます。そして城下町水沢の探訪のガイダンスを受けることもできます。
 内田家武家住宅は、家老に次ぐ大番役であった・内田勘之丞の屋敷です。禄高は96石2升で家中第2位だったそうです。市内でも格式のある武家屋敷の一つに数え上げられています。
 屋敷の間口は16間、奥行は30間あり、東西をひば垣、正面の板塀とするなど、武家屋敷らしいたたずまいです。表門から直接に式台をのぞけず、格上の来訪があった時、塀重門から表庭を通って直接上座敷に上がれるようになっています。



斎藤實記念館
さいとう まこと
岩手県奥州市水沢区吉小路24番
Tel 0197-23-2768
 斎藤實記念館は第30代内閣総理大臣の他、重職を歴任し、2・26事件で凶弾に倒れた斎藤實が故郷の人々のために残した書籍などを所蔵、展示しています。生前の書簡、執務資料などは、ここと、東京都の国立国会図書館に分散して保存されています。
 斎藤實は水沢藩士の次男として生まれ、海兵卒業後、アメリカ留学をし、海軍次官として山本権兵衛海相と活躍、海軍大臣になりました。朝鮮総督を経て5・15事件直後に首相に就任しました。
 昭和11年(1936)内大臣であった斎藤實は自らが指名した岡田啓介首相らとともにクーデター未遂事件「2・26事件」の犠牲になりました。この時に親友の高橋是清大蔵大臣も殺害されています。
 蔵書は朝鮮総督時代に収集した朝鮮関係図書の他、各界の人々から寄贈された単行本、彼が役員を勤めた社会団体の機関誌やパンフレットなど3万点にも及びます。教育文化、経済産業、民族独立運動など当時の日本社会・朝鮮社会の動向を研究する上でも重要な資料となっています。



日高神社
ひたかじんじゃ
岩手県奥州市水沢区字日高小路13
Tel 0197-23-4021
 日高神社は弘仁元年(810)嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされてます。北斗星の本地、妙見菩薩を祀る宮として信仰を集め、古来「日高妙見」の名で親しまれてきました。
 ここには征夷大将軍源頼義・義家父子が戦勝祈願に訪れたと伝えられています。伊沢氏を始めとする東北鎮護の国司、奥州藤原氏、伊達氏などからも崇敬を受けました。
 社殿は嘉応2年(1170)鎮守府将軍になった藤原秀衡により再建されました。慶長年間には伊達政宗が社領の寄進と社殿の造営を行い、参拝の記録も残っています。寛永9年(1632)伊達氏の家臣で初代水沢城主の留守宗利(伊達宗利)が再建し、代々の崇敬社としました。
 境内正面には拝殿、その奥に弊殿、本殿が建立されています。左側の森の中には留守氏代々の祖霊社の瑞山神社や留守家墓所などがあります。この瑞山神社と日高神社に火防の祈願をしたのが日高火防祭の始まりで、打囃子をして練り歩く「火防祭の日高囃(ひたかばやし)」として有名です。
 日高神社本殿は、寛永9年(1632)留守宗利によって再建された建物で、三間社流造、銅板葺(本来は茅葺)です。岩手県下では、江戸時代前期まで遡ることのできる数少ない神社本殿です。
日高神社本殿
 造りも優秀で、蟇股、台輪、庇頭貫などに特色ある形式がみられ、岩手県の神社建築の歴史を知るうえで貴重です。平成2年(1990)国の重要文化財に指定されました。
日高神社本殿
 参道突き当たりには垣内に「姥杉」が見事な枝振りを見せています。源義家が酒宴で刺した箸が根付たとされる杉で、推定樹齢約550年以上といわれ、奥州市指定天然記念物 となっています。
日高神社姥杉



黒石寺
こくせきじ
岩手県奥州市水沢区黒石町字山内17
Tel 0197-26-4168
 黒石寺は天台宗のお寺で天平元年(729)に行基によって開かれたとされています。東光山薬師寺と称しましたが、蝦夷蜂起の際に焼失しました。嘉祥2年(849)慈覚大師円仁が中興し、妙見山黒石寺と今の寺名に改めました。
 本尊の薬師如来像はカツラ材の一木造りで像高126cmもあります。胎内に貞観4年(862)の銘があり、日本最古の胎内仏です。僧形坐像(伝慈覚大師像)、四天王立像とともに国の重要文化財に指定されています。
 盛時には堂宇48、18坊を数えた黒石寺でしたが、その後たびたび火災にあい、灰塵に帰しました。現在の本堂と庫裏は明治17年(1884)に再建されたものです。
 黒石寺境内には明治16年(1883)に建てられた御供所兼鐘楼があります。1階は本尊に供える供物を準備する御供所、2階には200文字の漢文で黒石寺の由緒が刻まれている梵鐘が納められています。
黒石寺御供所兼鐘楼
 旧正月7日から8日早暁にかけて行われる蘇民祭は災厄を払い五穀豊穣を願う行事で裸参りの大祭です。裸の男たちが蘇民袋を奪いあう奇祭です。全国的に見ても原型をとどめているのはここだけです。
黒石寺蘇民祭



正法寺
しょうほうじ
岩手県奥州市水沢区黒石町正法寺129
Tel 0197-26-4041
 大梅禎拈華山円通正法寺は曹洞宗の名刹で貞和4年(1348)無底良韶(むていりょうしょう)禅師によって開かれました。奥の正法寺と呼ばれています。
 観応元年(1350) 崇光(すこう)天皇から「奥州二州僧録扶桑曹洞第三ノ本寺」「両国寺院出世道場」とする綸旨(りんじ)を得て、永平寺、総持寺と並ぶ東北地方における曹洞宗第3の本山となり、奥州2州の本山として隆盛をきわめました。
 一時衰退しますが、仙台藩4代藩主伊達綱村(つなむら)が中興しました。現在の本堂、庫裏、開山堂を改築寄進して、寺領75石を与えました。正法寺は現在でも73ケ寺の末寺を持ち、全国で25ケ所しかない僧堂があり日々厳しい修行が行われています。
 本堂は日本最大の萱葺き屋根を持ち、壮大さは東北随一といわれています。文化4年(1807)に建立された庫裏、寛文5年(1665)に建てられた正法寺最古の建物の総門とともに国の重要文化財に指定されています。
 又、正法寺の本尊である「如意輪観世音菩薩坐像」は鎌倉時代後期の寄木造りで岩手県指定文化財として1年に1度10月16日熊野大権現大祭の際に御開帳されます。



中尊寺
ちゅうそんじ
岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関202
Tel 0191-46-2211
 中尊寺は嘉祥3年(850)に慈覚大師が開創した天台宗の名刹で、天台宗東北大本山です。建立時は関山弘台寿院といいましたが、貞観元年(855)清和天皇より中尊寺の号を賜りました。
 長治2年(1105)堀川天皇の勅により、藤原氏の初代清衡が堂宇の再建に着手しました。21年の歳月をかけ天治3年(1126)堂塔40、僧坊300を越える大寺院を完成しました。
 隆盛を極めた中尊寺でしたが、藤原氏が滅亡後はすっかり衰え、建武4年(1337)の野火火災で山内のほとんどが焼け、金色堂と経蔵の一部を残すのみとなってしまいました。
 その後、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っています。金色堂はじめ讚衡蔵には3000余点の国宝・重要文化財を伝えています。東日本随一の平安美術の宝庫になっています。
 藤原清衡は、前九年の合戦によって父を失い、後三年の合戦によって妻子を失うという波乱の半生でした。
月見坂
 戦争で命を失った敵・味方の人々、さらに動物から草木に至るまで等しく供養し、戦争のない平和な社会をつくりたい、という願いをこめて中尊寺を建立したのです。

 初代藤原清衡の父親は、「前九年の役」で滅亡した妻の実家である安倍氏に味方したため処刑されました。そして清衡自身も刑死の運命にあったのです。
 母親が、「前九年の役」で功労のあった清原氏へ嫁ぐことによって清衡の命は助かりました。永保3年から寛治元年(1083〜87)に清原氏同士の抗争である後三年合戦がありました。
 頼義の子である源義家も加わった複雑な戦でした。最後の勝利したのは清衡と義家でした。清原の勢威を背負い、旧藤原・安倍の郎党をも引き入れ、藤原四代の基礎が築かれたのです。



 月見坂を登りつめた辺りに、別名愛宕堂(あたごどう)とも呼ばれている弁慶堂があります。文政9年(1826)に再建されています。
辨慶堂
 本尊は愛宕尊で堂内には立ったまま大往生をとげたと伝えられる弁慶衣川立ち往生の等身木像を安置しています。
辨慶堂
 源義経の木像も同じく安置されているほか、国宝に指定されている、勤行のときに鳴らす仏具「金銅剛孔雀文磬(けい)」などが所蔵されています。
辨慶堂
 参道入口広場の弁慶松といわれる松の大木の下に高さ60cmほどの五輪塔があります。これが弁慶の墓といわれています。
辨慶堂

 地蔵堂は本堂の隣にあり、後ろは北上川を眺める事ができます。おみくじや御札がたくさん飾られています。
 ききもせず束稲やまのさくら花
  よし野のほかにかかるべしとは
 国文学者の尾山篤二郎揮毫の西行の歌碑があります。
地蔵堂

 中尊寺本堂は明治42年(1909)再建された建物です。中尊寺一山の中心となる建物で、ご本尊は阿弥陀如来です。早朝のお勤めはこの本堂で行われています。 
中尊寺本堂
 堂内には、およそ1200年燈り続ける「不滅の法燈」が総本山の比叡山延暦寺より分火されて、護持しています。多くの場合、法要儀式もこの本堂で行われています。
中尊寺本堂

 不動堂は本堂から金色堂へ向かう途中にあります。ここでは交通安全・厄除け・家内安全・商売繁盛や、受験合格などの祈願が出来ます。
不動堂
 本尊の不動明王は、宇宙の本体・大日如来の命を受け、人間の過ちを直し、苦悩を取り除いてくれる仏です。毎月の縁日・28日に護摩が焚かれます。
不動堂

 薬師堂は藤原清衡が中尊寺境内に堂塔40あまり建てたうちの一つでした。別の場所に建てられ、明暦3年(1657)に現在地に建立されたそうです。ここでは月に一度火を焚いて祈祷するそうです。護摩符に願いを書いて置いて預けますとそれを燃やして祈祷してくれます。
薬師堂
 薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心に盛んだったそうです。特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰され、その効能があるのが薬師如来であり、この薬師堂でした。
薬師堂

 大日堂は初代清衡が創建した三重塔跡地に正徳2年(1711)再建されたものです。三重塔の本尊であった大日如来を継承しているお堂です。
大日堂

 中尊寺金色堂は藤原清衡が天仁2年(1109)ごろから着手して15年の歳月をかけ天治元年(1124)に完成させました。単層、宝形造りの阿弥陀堂で、堂の内外に漆を塗り、金箔を重ねた金色の建物です。
中尊寺金色堂
 内部の装飾も華麗です。柱や須弥壇、長押し(なげし)、桁(けた)などには白く光る夜光貝の〈らでん〉をちりばめ、要所には透かし彫りの金具・漆の蒔絵と、お堂というより工芸美術品のようです。
中尊寺金色堂
 建武4年(1337)の大火の時もこの金色堂だけが被害に遭わず中尊寺創建当初の唯一の遺構になっています。壇上には本尊阿弥陀如来を中心に、黄金に輝く11体の仏像が安置されています。
中尊寺金色堂
 金色堂の中央の須弥壇には、初代清衡の遺骸、向かって左の壇に2代基衡、右の壇に3代秀衡の遺骸が安置されていて、秀衡の遺骸の傍らに、子泰衡の首級が納められています。
中尊寺金色堂
 高蔵寺阿弥陀堂(宮城県角田市)と白水阿弥陀堂(福島県いわき市)と共に東北3大阿弥陀堂の一つに数え上げられていて、当時の地方へ波及した阿弥陀堂建築を代表する存在です。中尊寺金色堂は平成9年(1997)国宝に指定されています。
中尊寺金色堂

 経蔵は中尊寺の境内にある間口3間、屋根は宝形、金属板葺き建物です。当時の文化を伝える数少ない建物の一つで、彩色などは剥げ落ち、平屋建てにするなどの改修がされています。
中尊寺経蔵
 現在の建物は平安時代の古材を使って鎌倉時代に造られたものと推察されます。創建時の経蔵は2階瓦葺と「供養願文」に記されています。建武4年(1337)の火災で上層部が焼失したようです。
中尊寺経蔵
 本尊は騎師文殊菩薩像です。経棚には国宝の紺紙金字一切経が残されていました。今は讃衡蔵に保管されています。経蔵は明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。
中尊寺経蔵

 芭蕉
 「五月雨の降り残してや光堂」

 金色堂の脇に建つ芭蕉の碑です。
芭蕉句碑
 あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないかという意味です。
芭蕉像

 中尊寺旧覆堂は金色堂を風雪から護るために正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられた五間四方の堂です。古くは「鞘堂(さやどう)」と呼ばれていました。
中尊寺旧覆堂
 近年の調査では、金色堂が建立されてから50年ほどしてから簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期に現在の形になったものと考えられています。
中尊寺旧覆堂
 芭蕉をはじめ多くの文人や参拝客が堂内に入り薄明かりの中に金色堂を拝観したのです。昭和38年(1963)に新しい覆堂が建設されたので少し離れた現在の所に移築されました。旧覆堂は大正6年(1917)国の重要文化財に指定されています。
中尊寺旧覆堂

 金色堂のさらに奥に白山神社があります。嘉永6年(1853)に再建された建物です。中尊寺鎮守の1つで中尊寺一山の僧侶によって神寺能(じんじのう)が行われています。
白山神社
 嘉祥3年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山神社から分霊し、大師自ら十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号したそうです。
白山神社
 白山神社境内には入母屋造りの能舞台と楽屋があります。毎年5月4、5日に古実式三番(こじつしきさんば)と御神事能(おじんじのう)が奉納されています。
白山神社
 能画家松野奏風による松が優雅に描かれています。昭和22年(1947)描かれたということです。
白山神社

 中尊寺の阿弥陀堂は金色堂だけだと思っていたのですが別に阿弥陀堂もあります。竹林を背にして、宝形造りの屋根が見事です。本尊は阿弥陀如来座像です。
阿弥陀堂

 当初は二階造りの鐘楼でしたが建武4年(1337)の火災で焼失しました。梵鐘は康永2年(1343)の鋳造です。銘には中尊寺の創建や火災のことまで記してあるそうです。撞座の摩耗がはなはだしく、今ではこの鐘を撞くことはほとんどないそうです。
鐘楼



平泉郷土館
ひらいずみきょうどかん
岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立44
Tel 0191-46-4012
 平泉郷土館は「平泉の文化遺産」、その概要をわかりやすく紹介するガイダンス施設として、町内観光のビジターセンターとして、平泉の歴史文化を幅広く紹介しています。
 「資料館・文化財センター」では藤原氏三代を中心とした平泉文化の発展にかかわる資料の収集・保存・調査・研究を行い、その成果を展示しています。発掘調査で出土した重要な考古資料なども多数展示しています。



毛越寺
もうつうじ
岩手県西磐井郡平泉町平泉大沢58
Tel 0191-46-2331
 毛越寺は嘉祥3年(850)慈覚大師円仁が開祖になり、奥州藤原氏2代基衡の勅願によって造営したお寺です。毛越寺は中尊寺と並び平泉町を代表とする寺院で、国特別史跡と特別名勝に指定されています。
 大師が東北巡遊でこの付近に来たとき、一面霧におおわれて進めなくなりました。その時、足元に 白鹿の毛が落ちていました。不思議に思いその毛をたどると前方に白鹿がうずくまっていました。
 大師が近づいて行くと、白鹿の姿は消えて一人の白髪の老人が現れ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げたのです。円仁は、この老人こそ薬師如来の化身と思い、一宇の堂を建立し、毛越寺が始まったのです。

 夏草や 兵共が 夢の跡

 松尾芭蕉直筆の句碑があります。
芭蕉直筆の句碑

 毛越寺一山の根本道場であるこの本堂は、平安様式の建物で、平成元年(1989)に建立されました。本尊は平安時代の作と伝えられる薬師如来です。
毛越寺本堂
 毛越寺は「大泉が池」を中心とした平安時代の優美な浄土庭園と平安時代の伽藍遺構が残り、国の特別史跡と特別名勝に二重に指定されています。
毛越寺本堂

 大泉が池は約30haという広大な池で、境内の中心にあります。藤原氏2代基衡が造営した日本最古の浄土庭園です。
大泉が池
 大泉が池は東西約180m、南北約90mあり、池のほぼ中央部に東西約70m、南北約30m、勾玉状の中島があります。
大泉が池
 池の周辺や中島にはすべて玉石が敷き詰められています。平安時代の姿をほぼ完全な状態で見ることができます。
大泉が池
 このような池の風景は荒海を表しているといわれています。
 本堂横の池には大きなハスが茂っていて花が咲いていました。
大泉が池

 開山堂は校倉風の建物で大正12年(1923)に建立されました。慈覚大師円仁を祀るお堂です。毛越寺開山1150年の平成12年(2000)に内陣が改修されました。 
開山堂

 常行堂は享保17年(1732)、仙台藩主伊達吉村によって再建されました。堂は宝形造りで須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神(またらじん)が祀られています。
常行堂
 摩多羅神は慈覚大師が中国から帰国する船の中で感得した神で、阿弥陀如来の化身といわれています。奥殿の扉はふだんは固く閉ざされ、33年に一度、一般に向け開帳されます。祭礼の正月20日は、古式の修法と法楽としての延年の舞が奉納されます。
常行堂

 浄土式庭園には曲水(ごくすい)の宴の舞台となる遣水(やりみず)があります。遣水とは池に水を取り入る水路です。遣水には玉石を底に敷き詰め、曲線の流れを作ったり、水切り石や水越など「作庭記」で見られる技法が使われています。
曲水の宴
  平安時代の遺跡としては日本唯一のものだそうです。毎年5月の第4日曜日には、盃を流して下に着くまでに和歌を詠む宴「曲水の宴」が行なわれます。
曲水の宴

 毛越寺宝物館では毛越寺一山に伝わる仏像、書籍、工芸品、発掘遺品、調査資料、延年の舞用具などを陳列しています。
毛越寺宝物館



柳之御所跡
やなぎにごしょあと
西磐井郡平泉町
 現在の高館橋の西のたもとにあります。奥州藤原氏の初代清衡、二代基衡の居館跡です。別名「平泉館」とも呼ばれています。
 柳之御所は文治5年(1189)源頼朝の鎌倉幕府軍の攻撃によって落城し、藤原氏三代の栄華もわずか90年で幕を閉じたのでした。
 柳之御所からは、儀礼に使った素焼きの皿、かわらけや、中国製磁器の調度品など様々なものが出土し、当時の暮らしの様子を鮮やかに伝えています。



猊鼻渓
げいびけい
岩手県一関市東山町長坂字町
 北上高地の石灰岩地帯を流れる砂鉄川の両岸を浸食して形成された高さ120mにもおよぶ断崖です。それが2kmも続くのです。
 この渓谷の美しさを満喫するなら、舟下りが一番です。男性的な景色とは反対にゆったりと流れる砂鉄川を、渓谷に響きわたる船頭さんの「げいび追分」を楽しみながら約1時間30分楽しめます。
 猊鼻渓は日本百景のひとつにも数えられています。春はフジ、夏は涼の新緑、秋は紅葉、冬はキジなどの鳥の天国と四季を問わず楽しめます。



幽玄洞
ゆうげんどう
岩手県一関市東山町長坂字東本町154−1
Tel 0191-47-3303
 日本最古の鍾乳洞といわれている「幽玄洞」です。古代中世期の地層をもち、ウミユリの萼(がく)や三葉虫などたくさんの化石が発見されているところです。
 洞内は鍾乳石、石柱、つらら石など自然の造形美にあふれ、エメラルドグリーンに光輝く地底湖が神秘的な雰囲気を出しています。 



観音霊山
かんのんれいざん
岩手県一関市東山町長坂字東本町
 小猊鼻渓といわれる猿沢川の川沿いにあります。仁王門をくぐって、石段を登ると、その左右は三十三観音霊場になっています。
 鍾乳洞のような洞窟はそれ程大きいわけではありません。奧に通称マリア観音なるものがありました。


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