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日本の旅
日本の旅          福島・会津・磐城

野口英世記念館
のぐちひでよきねんかん
福島県耶麻郡(やまぐん)猪苗代町三ツ和前田81
Tel 0242-65-2319
  野口英世記念館は世界的にも名が知られている医学者、野口英世の生涯を紹介している記念館です。数々の資料があり、輝かしい功績や研究の記録に彼の努力の跡がうかがえます。また、少年時代に左手に火傷を負った囲炉裏など、生家が明治時代そのままの姿で保存されています。
 左手に火傷を負ってしまった幼い清作(野口英世の幼名)は、農業で自活出来ませんでした。そのため学問で身を立てようと勉学に励みました。高等小学校の時、清作は仲間の援助を受け、現在の会津若松市にある会陽医院という病院で左手の手術を受けました。その時、医学の素晴らしさを知り、卒業後、その病院に弟子入りしたのです。
 19歳の時、医師免許を取りに行くために上京しました。その別れ際に、「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」という有名な言葉を残しました。そして見事、わずか20歳という若さで医師免許を取得したのです。
 その後、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三郎を所長とする伝染病研究所の助手となりました。野口英世は、研究所内で、来日中に同所を訪れたシモン・フレキスナー博士と知りあいました。横浜の海港検疫所に派遣された時、ペスト患者を発見、隔離するなどして、世界の野口英世への足掛かりを作っていきました。
 アメリカではロックフェラー研究所で梅毒のスピロヘータの研究に成功しました。そしてドイツを始めヨーロパ各地へ講演をしました。
火傷した囲炉裏
 海外で大成功を収めた野口英世は日本に一時、帰国しました。その後、黄熱病の研究のため、エクアドルに出張しました。野口英世は黄熱病のさらなる研究のために、さらに南米各地を回りました。
 ペルー、ブラジル、メキシコでも野口英世は黄熱病の研究を行いました。そしてアフリカのアクラへ出張しました。ところがそこで黄熱病にかかってしまい51歳の偉大な生涯を閉じてしまったのです。



飯盛山
いいもりやま
福島県会津若松市一箕町飯盛山
 飯盛山は、会津若松市の北西端にあり中心街からクルマで5分で行けます。戊辰戦争の際には、白虎隊が遠く鶴ヶ城を仰ぎながら、集団自決を遂げた場所として有名です。
 江戸時代の末期、鳥羽・伏見の戦いがありました。その後、薩摩・長州を中心とする討幕派が会津に押し寄せました。これが戊辰戦争です。
 その時に、白虎隊の少年20名が、落城したと思いこみ、全員自刃しました。その場所が飯盛山でした。(1人だけ「セツ」という人に助けられ息を吹き返した人もいました。飯沼貞吉という人です。)
 飯盛山には、白虎隊のお墓があり、その墓は鶴ヶ城の方を向いています。自刃の地からは鶴ケ城を見ることができます。毎年4月24日と9月24日に、墓前で慰霊祭が開かれています。



白虎隊記念館
びゃっこきねんかん
福島県会津若松市一箕町大字八幡字弁天下33
Tel 0242−24−9170
 白虎隊記念館は白虎隊士自刃の地の飯盛山登り口にあります。昭和31年(1956)4月に、会津若松出身の弁護士であった故早川喜代次氏が白虎隊や会津藩の悲劇を後世に正しく伝えたいという思いからオープンさせたそうです。
 昭和59年(1984)には鉄筋コンクリート造り2階建ての建物に改築しています。白虎隊や会津藩、新撰組などに関する資料など約12000点が収められています。白虎隊士たちの悲劇を描いたパノラマ、当時の衣服、武器、写真、近藤勇、板垣退助ら攻防両軍の資料などを展示しています。また戦争の様子を再現したジオラマもあります。



栄螺堂
(旧正宗寺円通三匝堂)
さざえどう(きゅうしょうそうじえんつうさんそうどう)
福島県会津若松市一箕町八幡弁天下
 飯盛山の自刃の地から少し下った所に、6角3層の建造物があります。螺旋通路により一方通行で上下できるという珍しい建物、「栄螺堂(さざえどう)」です。
 栄螺堂は、江戸時代後期の特異な建築様式の仏堂です。堂内は回廊となっていて、参詣路を往路と帰路とに分けています。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっているのです。三匝堂(さんそうどう)というのが正式ですが、サザエに似ていることから「栄螺堂」、「サザエ堂」などといわれています。
 栄螺堂の内部には、会津藩の道徳教本にある皇朝24孝の絵額が掲げられています。道徳を重んじた会津藩の精神を感じることができます。



会津武家屋敷
あいづぶけやしき
福島県会津若松市東山町石山院内1
Tel 0242-28-2525
 会津の東端の東山のふもとに、幕末の会津藩家老「西郷頼母」の邸宅を復元した「会津武家屋敷」があります。 冠木門を入ると左手に35の部屋がある約400坪の広大な西郷屋敷があります。
 屋敷内は人形が当時の武家の暮らしを再現しています。将軍御成りの部屋や戊辰戦争の際家族が自刃した部屋、当時の武家のくらしが分かる武具・調度品などが展示されています。
 屋敷内には県の重要文化財・旧中畑陣屋、茶室麟閣を再現した茶室領南庵、藩米精米所、会津歴史資料館、心の美術館などがあり野外歴史博物館となっています。「姿三四郎」のモデルとなった西郷頼母の養子「西郷四郎」の像などもあります。



御薬園
おやくえん
福島県会津若松市花春8−1
Tel 0242-27-2472
 御薬園は旧会津藩主松平氏の別荘です。藩の薬園のあったことから、この名で呼ばれています。江戸時代中期の作庭手法をよく伝えています。中央に池を広くとり、中島をおき楽寿亭と称する茶亭を設けています。
 池の奥、右に男滝、左に女滝があります。後方に低い築山を設けて、東山連峯の風景を豊かにとり入れ、また、石敷路をたどって、池畔をめぐる風致も変化に富ませています。
 御薬園では現在も400種類の薬草が植えられています。松平藩2代目藩主正経が薬草を栽培し、3代目正容が朝鮮人参を試植といわれています。 
 江戸時代の大名庭の形式による山水庭として優れた庭園です。
 昭和11年(1936)には歌人・与謝野晶子も訪れ「秋風に荷葉うらがれ香を放つ おん薬園の池をめぐれば」の歌を残しています。



鶴ヶ城(若松城)
つるがじょう(わかまつじょう)
福島県会津若松市追手門1−1
Tel 0242-27-4005 (会津若松市観光公社)
 会津佐原氏の3代目光盛は、故郷であった相模国三浦郡蘆名から名をとり、蘆名氏を名乗りました。至徳元年(1384)、7代目直盛が会津郡門田荘黒川に黒川城を築きました。これが鶴ヶ城(若松城)の前身です。
 その後、天正17年(1589)摺上原の合戦で蘆名氏は敗れ、城は伊達政宗の居城となりました。小田原を平定した豊臣秀吉は蒲生氏郷をここに入封させ奥羽の要にしました。文禄2年(1593)蒲生氏郷は本格的な天守閣を築城しました。
 蒲生氏郷は城を石垣作りの大城郭に改築しました。5層7重の天守を造り、その名を「鶴ヶ城」と命名して城下町は若松と名付けられました。この時に積まれた石垣が現在の天守台で、400年経た現在も残っています。その後、加藤嘉明、明成、保科正之が城主となりました。
 会津藩の藩祖、保科正之は2代将軍徳川秀忠の子です。3代藩主正容(まさかた)の時に松平姓を名乗るようになり、会津松平家は「御三家」につぐ「御家門」という家格を持っていました。幕末、9代藩主松平容保(かたもり)は京都守護職についたため倒幕派から敵視されました。
 慶応4年(1868)1月、戊辰戦争が起こり、薩摩、長州藩などの倒幕勢力と会津、桑名藩などの旧幕府勢力との戦いになりました。同年8月、白虎隊は戸ノ口原で破れ、飯盛山で戦火に包まれた鶴ヶ城をみて自刃、その後会津藩は降伏しました。
 鶴ヶ城は1階から4階まであり会津歴代藩主の資料、刀剣や郷土資料などたくさん展示されてます。天守閣には、自刃した白虎隊士と松平容保の肖像画が飾られてます。天守閣から会津若松市を一望できます。

茶室鱗閣
 茶室鱗閣は蒲生氏郷が千利休の子・少庵を会津にかくまっていたときに使われていた茶室です。
茶室鱗閣

 入り組んだ茅葺き屋根と板葺きの庇を持ち、武家茶道の様式を備えた東日本には珍しい草庵風の茶室です。会津若松市指定文化財になっています。
茶室鱗閣



伊佐須美神社
いさすみじんじゃ
福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377
Tel 0242-54-5050
 古事記によれば、崇神天皇の命により高志(北陸)に派遣された大毘古命(おおびこのみこと)と、その子で東の方十二道(東海)に派遣された建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が相津(会津)で行き会いました。そこで会津と名付けられたと記述されています。
 この時、国土開拓の祖神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)を天津嶽に祀って伊佐須美神社が創祀されました。その後、博士山・明神岳を経て、欽明天皇13年(552)に現社地へ遷座し、大毘古命・建沼河別命も合祀されたそうです。
 伊佐須美神社は会津総鎮守、奥州二宮、岩代一宮です。歴代領主からも崇敬され、室町時代後期に芦名盛安から寄進された金色の神輿は国の重要文化財に指定されています。御田植祭は日本三大田植祭に数えられ、催馬楽、獅子追い、田植人形など古来から伝わるもので福島県最古の形式を伝えています。
 平成20年(2008)10月3日に火事が起き、拝殿授与所が焼失しました。さらに同月の29日にも出火し、本殿、神楽殿、神饌所などが全焼してしまいました。本殿は平成25年(2013)に再建されるそうです。



岩谷観音
いわやかんのん
福島県福島市岩谷7−3
Tel 024-534-5740 (観音寺)
 福島市の町のすぐ北に信夫山があります。その東端の中腹に岩谷観音があります。平安末期から鎌倉期にかけて、この地を支配していた豪族の伊賀良目七郎高重が応永23年(1416)に持仏聖観音を本尊として観音堂を建立したといわれています。
 1000万年前後前に海底に堆積していた地層が隆起した信夫山の岩肌に、現在は、60余体の磨崖仏があります。大半は江戸時代中期以降に,彫られたものだそうです。
 宝永2年(1705)の聖観音像、宝永7年(1710)の巳待供養弁財像など制作年がわかるものもあります。岩谷一面に、西国三十三所観音を模した仏像をはじめとして、庚申・弁財天・釜神などが彫られています。
 風化が著しいものもありますが磨崖仏としては福島市唯一のものであり昭和39年(1964)に福島市指定史跡及び名勝に指定されています。



古関裕而記念館
こせきゆうじきねんかん
福島県福島市入江町1−1
Tel 024-531-3012
 古関裕而記念館は信夫山東麓にある福島市音楽堂の敷地内にある福島市出身の作曲家古関裕而氏の記念館です。2階の展示コーナーでは書斎が再現され、愛用したハモンドオルガンや譜面などの資料が展示されています。
 古関裕而は戦前は「暁に祈る」、「露営の歌」など歴史的作品を残しました。戦後の復興期に「長崎の鐘」、「鐘の鳴る丘」「とんがり帽子」「君の名は」など人々に夢と希望を与えた作曲家でした。



霞ヶ城公園
かすみがじょうこうえん
福島県二本松市郭内3ー232
Tel 0243-23-1111
 霞ヶ城公園は霞ヶ城址に造られた自然豊かな公園で、春の桜・秋の菊と市民の憩いの場として親しまれているところです。昭和57年(1982)に箕輪門が復元され、苔むした石垣に見事な庭園美にいにしえの昔が偲ばれます。
 興国2年(1340)足利尊氏から奥州探題に畠山高国が任命され、応永年間(1394-1427)に4代満泰が二本松市街の白旗ヶ峰に城を築きました。天正13年(1585)伊達政宗の父輝宗を拉致した畠山義継を、阿武隈河畔で政宗が、輝宗もろとも射殺し、伊達氏の所領となります。その後、上杉氏が治めましたが丹羽光重が白河より移封してきました。
 丹羽光重は10年の歳月をかけて霞ヶ城(二本松城)を築城しました。城の門は樫の木を箕輪村(現在二本松市内)山王寺山の御神木を用い、この門は楼門として「箕輪門」と命名されました。
 明治新政府と戦った戊辰戦争では、老人や少年までが動員されましたが、城はたった一日で落城しました。この時の戦闘で戦死した少年隊26人は白虎隊と並んで幕末の悲劇として名をとどめています。



安達太良神社
あだたらじんじゃ
福島県本宮市本宮舘ノ越232
Tel 0243-34-2710
 安達太良神社は高皇産霊(たかみむすび)神・神皇産霊(かみむすび)神を祀る社として安達太良山麓に鎮座していました。平安時代の末期、久安2年(1146)安達郡の総鎮守として現社地に遷座された歴史ある神社です。
 遷座の際に新たに安達太良山(1700m)の神々である甑・船・矢筈・剣明神、安達太良山支峰である大名倉山(576m)の神である宇名己呂別(うなころわけ)神を合祀し、安達太良明神と称したそうです。
  「甑」とは古代の蒸し器のことだそうです。安達太良山が湯気のような噴煙を上げていたことからその名がついたようです。昔から地方守護の神としてあがめられ、すべての産業開発、商売繁昌、家内安全、縁結びなど、あらゆる幸福を司る守護神だそうです。
  表参道から、一の鳥居、二の鳥居を通り、石段を登ると拝殿があります。その奥に覆屋に入った本殿があります。
 拝殿の屋根は入母屋造りです。正面には唐破風を突き出し、背面には幣殿の切妻屋根が突き出しています。正面と両側面の建具は入り口を除きすべて格子の蔀戸となっています。内部には三十六歌仙が掲額されています。また本殿は、一間社流造りの木羽葺きで造られています。
 文化3年(1806)の大火により、本宮両町は殆ど焼失し、御本社、拝殿、神楽殿、宝蔵及び末社まで類焼してしまいました。文化7年(1810)にも再び本宮両町は全焼。現社殿は、文化13年(1816)に再建されたものです。
 安達太良神社の柱には戊辰戦争の時の弾痕が残っています。明治元年(1868)7月26日、新政府軍は三春藩を落とし、2日後にこの本宮を陥し、翌日霞ヶ城(二本松城)を陥落させて会津に向かったそうです。
 境内に伊藤久男顕彰歌碑があります。抒情性豊かなバリトン歌手・伊藤久男の代表ヒット曲「イヨマンテ(熊祭)の夜」が刻まれています。伊藤久男は明治43年(1910)本宮町に生まれました。生来の声量と力強い情熱によってあざみの歌、イヨマンテの夜、暁に祈るなど700曲に及ぶヒットを果たしました。
伊藤久男顕彰歌碑



本宮運動公園
もとみやうんどうこうえん
福島県本宮市高木金草入
 本宮運動公園の桜は見事です。本宮市は福島市と白河市の中間地点にあります。雄大な安達太良連峰を一望できるスポットで散策路もあります。
 園内には体育館、テニスコート、多目的グランド、中央広場などがあります。また、木立の中を散策する約3kmのコースには、安達太良山や町並みが一望できる「見晴しの丘」があります。



開成山公園
かいせいざんこうえん
福島県郡山市開成1−5
Tel 024-924-2621
 開成山公園は水と緑に囲まれた30ヘクタールの公園で郡山市役所の前にあります。五十鈴湖を中心として野外音楽堂、バラ園のほか、野球場、陸上競技場、プールなどが整備され、市民の憩いの場になっています。
 春には約1300本ある桜が一斉に咲き、散歩をしながら花見が楽しめます。ピンクに染まった公園は4月中旬には非常にきれいな姿を見せてくれます。



地蔵桜
じぞうざくら
福島県郡山市中田町木ノ目沢岡ノ内
 郡山市指定天然記念物の紅枝垂地蔵桜です。三春町や田村市船引町との境に近いところにあり「三春の滝桜」からは北へわずか4kmのところにあります。
 根周り6.3m、目通り幹周り4.1m、高さ16m、枝の直径約18m、樹齢約400年のベニシダレザクラの1本桜です。この桜のたもとに地蔵堂(延命地蔵尊)があることから「地蔵桜」の名が付けられています。
  見ごろは4月下旬頃です。おおむね三春の滝桜が散り始めたころに地蔵桜が見ごろを迎えるようです。



三春滝桜
みはるたきざくら
福島県田村郡三春町大字滝字桜久保
 三春滝桜がある三春町は、福島県の中央部にある三春藩5万5千石の城下町です。三春城は大志多山にあり舞鶴城ともよばれています。伊達政宗の正室愛姫の誕生地でもあります。
 この地の豪族田村氏3代義顕により、永正元年(1504)に築かれ、奥州仕置により、田村氏4代宗顕は伊達政宗に従い仙台に去り会津領となりました。正保2年(1645)常陸宍戸より秋田俊季が入封し明治まで11代続きました。
 三春滝桜は岐阜県根尾村(根尾谷)の淡墨桜、山梨県武川村(実相寺)の神代桜とともに日本三大桜の一つに数え上げられています。日本を代表する桜の巨木で岐阜県の淡墨桜とともに東西の横綱に位置づけられています。
 国の天然記念物に指定されていて樹齢1000年以上の紅枝垂れ桜です。樹高は12m、根回りは11m、枝張りは幹から北へ4.6m、東へ10.7m、南へ13.9m、西へ14.5mの巨木です。
 橋本明治画伯は昭和42年(1967)に三春に写生に訪れ「滝桜」をモデルにして皇居新宮殿正殿の松の間杉戸絵を飾る「桜」を描いています。



夏井川渓谷
なついがわけいこく
いわき市小川町江田〜川前町
 夏井川渓谷は県道41号線沿いで、昔の磐城街道に沿っています。阿武隈山地から太平洋に注ぐ夏井川は川前から小川まで15kmあり、夏井川渓谷は男性的な渓谷美として広く知られています。
 硬い岩盤を侵食してできた渓谷で夏井川が岩にぶつかりながら激しく流れ出ています。多くの滝や淵があり県立自然公園に指定されている景勝地です。
 春の岩ツツジ、初夏の新緑、秋のイロハモミジは夏井川渓谷の美しさを引き立てます。遊歩道などもありゆっくり散策できます。



籠場の滝
かごばのたき
福島県いわき市小川町塩田地内
 夏井川渓谷の中で、背戸峨廊入口から夏井川を遡ると籠場の滝があります。両岸から流れを阻むように連なっている奇岩の間を水煙をあげて流れ落ちています。
 「籠場の滝」とはあまりの滝の美しさに平藩主が籠を止めたことからつけられたそうです。
 落差はそれ程あるわけではありません。5、6mぐらいです。水流が強いので迫力があります。



草野心平記念文学館
くさのしんぺいきねんぶんがくかん
福島県いわき市小川町高萩字下タ道1ー39
Tel 0246-83-0005
 草野心平記念文学館は平成10年(1998)に開館しました。蛙の詩人として人々に親しまれ文化勲章を受けた草野心平の生涯と作品を展示した記念文学館です。
 草野心平は「いわき」の小川の人で明治36年(1903)に生まれました。昭和25年(1950)47歳の時、一連の蛙の詩によって第一回読売文学賞(詩歌部門)を受賞しました。
 昭和52年(1977)74歳の時、勲三等瑞宝章を受賞し、文化功労者、文化勲章も受賞しています。故郷のために「小川の歌」なども作詞しています。
 ロビーから雄大な阿武隈山系も眺めることができます。実に開放的でのんびりした気分になれます。



薄磯海岸
うすいそかいがん
福島県いわき市平薄磯
 薄磯海岸はいわき市を代表する海水浴場の一つで夏のシーズンには多くの海水浴客で賑わいます。薄磯海岸は「日本の渚・百選」にも選ばれています。
 薄磯海水浴場の南側には美空ひばり像、さらに南には塩屋埼灯台があります。映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台にもなった海岸です。



塩屋の岬
しおやのみさき
福島県いわき市平字薄磯字宿崎
 美空ひばりの晩年の名曲 「みだれ髪」 の歌詞に登場する塩屋の岬です。
 髪のみだれに手をやれば、赤いけだしが風に舞う、憎や恋しや塩屋の岬
 「みだれ髪」で昭和の歌姫美空ひばりが有名になりました。この舞台となったこの地に美空ひばり像が平成14年(2002)に建立されました。
永遠のひばり像
 世界に通ずる太平洋に向かって永遠に歌いつづけています。吹き込んだ曲は1200曲もあり、没後国民栄誉賞をうけています。
永遠のひばり像



塩屋埼灯台
しおやざきとうだい
福島県いわき市平薄磯字宿崎33


 塩屋埼灯台は豊間(とよま)の灯台とも呼ばれ、薄磯海岸の海抜73mの断崖に立つ白亜の灯台です。
 木下惠介監督の映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となった灯台としても知られています。灯台職員とその家族が転勤で地方の灯台をまわりながら、積み重ねる喜びと悲しみを描いた実話でした。
 この付近は、昔から潮の流れが激しく、暗礁も多く、海上交通の難所として知られていました。明治32年(1899)煉瓦石造で建てられ、初点灯されました。
 昭和13年(1938)福島県沖地震のため壊れ、コンクリート製に改築されましたが太平洋戦争末期に、米軍機体に破壊されてしまいました。昭和25年(1950)修復されています。
 この記念碑は海を守る灯台守の妻として幾多の苦難の道を乗り越えた田中きよさんの手記が昭和31年の婦人雑誌に「海を守る夫と共に20年」という題で掲載され心打たれた木下恵介監督により「喜びも悲しみも幾年月」として映画化された記念碑です。



豊間海岸
とよまかいがん
福島県いわき市平豊間
 塩屋崎と合磯(かっそ)岬の間の約4kmの海岸が豊間海岸です。磐城海岸県立自然公園に指定されているところです。
 消波ブロックがなく、いわき市内の海水浴場の中でも波が強いことで知られています。広い砂浜は、今では珍しい鳴き砂として有名で1年を通じてサーファーで賑わっています。



三崎公園
みさきこうえん
福島県いわき市小名浜下神白
 小名浜港から太平洋に突き出た小高い丘にある眺望の良い公園で、昭和46年(1971)にオープンしました。面積は約3万5千坪あるそうです。広々とした敷地には約200本のソメイヨシノが咲いています。
 園内には高さ59.99mのマリンタワーと、海に突き出した潮見台があり、海を眺められます。芝生広場及びバーベキュー広場、展望台、ピクニック広場、野外音楽堂などがあります。




いわきマリンタワー
いわきまりんたわー
福島県いわき市小名浜下神白大作111
Tel 0246-54-5707
 三崎公園内に、市制施行20周年を記念して建設された高さ59.9mのタワーです。岬に立地しているので展望室は海抜106mの高さになります。マリンタワーは展望台になっています。屋上のスカイデッキからは、360度の大パノラマが楽しめます。
 マリンタワーのデザインは斬新です。展望台付近は逆三角形になっているので迫力満点です。



アクアマリンふくしま
あくわまりんふくしま
福島県いわき市小名浜字辰巳町50
Tel 0246-73-2525
 アクアマリンふくしまは平成12年(2000)7月にオープンした小名浜港の新しいシンボルです。人気、話題ともにナンバーワンの水族館です。
この水族館は世界ではじめて、サンマの飼育に成功したことでも有名です。サンマは生態上、未だ謎に包まれている部分が多く、水槽で飼うのは困難だとされていました。
 アクアマリンふくしまに隣接した港には東海大学の海洋学部の実習船が停泊していました。




勿来の関跡
なこそのせきあと
福島県いわき市勿来町関田
Tel 0246-22-7477
 勿来の関は南下してきた蝦夷勢力の来襲を防ぐため5世紀に作られた関所です。同時代に作られた白河の関、念珠ヶ関とともに奥州三古関として有名です。
 「天下第一武勇の士」と賞讃され、源氏武士の鑑とされた源義家の銅像です。「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」と詠んでいます。源義家がここで休息をとった時、一本の松に弓を掛け、隣の松に鞍を掛けたといわれています。
 名古曽とは誰かは
 言ひしいわねども
 心に寿うる関とこそ三連
     和泉式部
 「勿来」とは「来る勿(な)かれ」からきているそうです。現在も、関東と東北との境となっています。
 勿来の関の碑をはさんで、関東側に「関東宮」、 東北側に「東北宮」という小さな祠があります。関東と奥州の国境の守り神としてまつられたお宮と考えられています。
 松尾芭蕉も勿来の関を訪れています。
 「風流のはしめやおくの田植えうた」
という句碑が残されています。
 勿来関文学歴史館には源義家を中心とした資料等が展示されています。


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