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日本の旅
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八戸港
はちのへこう
青森県八戸市大字鮫町
 八戸港は、八戸漁港を有し、港湾法上の重要港湾で、港則法上の特定港に指定されています。東北地方では仙台の塩釜港に次ぐ工業港・国際貿易港で、青森県で最大規模の港湾です。
 昭和56年(1981)に八太郎3号ふ頭に八戸港フェリーターミナルが完成し、苫小牧との間に1日4便が運航され本州と北海道を結ぶ拠点となっています。
 ここにはウミネコに餌付け体験をしながら、八戸港内をクルージングできる観光遊覧船があります。蕪島や八戸シーガルブリッジ、八戸大橋を望むことができます。
 八戸港の始まりは、寛文4年(1664)、八戸藩が生まれた頃で、「鮫浦」と呼ばれ、主に漁港としての機能を持ち、三陸沿岸の避難港としても重要な役割を果たしてきました。



蕪島
かぶしま
青森県八戸市鮫町
 八戸市の東に位置する蕪島は海鳥のメッカです。島の周辺約100mが「ウミネコ」の繁殖地として天然記念物に指定されています。
 昔は今のように陸続きではなく島でした。太平洋戦争時に軍事施設建設のため陸続きとなったのです。「ウミネコ」は2月から3月にかけて飛来して、4・5月に産卵し8月には飛び去っていきます。
 「ウミネコ」は蕪島にある蕪嶋神社に祀られている弁財天の使者として町の人たちの信仰を集め大切にされてきました。



蕪島神社
かぶしまじんじゃ
青森県八戸市大字鮫町字鮫56−2
Tel 0178-34-2730
 蕪島神社はウミネコの繁殖地として国の天然記念物に指定されている蕪島の頂上にあります。厳島神社という神社でしたが、平成3年(1991)、蕪嶋神社に名前を変えました。
 永仁4年(1269)、鎌倉幕府御家人で工藤祐経の子・犬房丸が流され、蕪島が江ノ島に似ていたところから厳島神社(弁財天)を蕪島の頂上に勧進したのが始まりと伝えられています。
 宝永3年(1706)、八戸藩3代藩主南部通信が社殿を改築し男子誕生の子宝祈願を行いました。そして願いは叶えられ、以来歴代藩主から崇敬庇護されました。祭神は多紀理毘売命、市寸嶋比売命、多岐都比売命で商売繁盛や子授け、大漁豊漁に御利益があるとされ多くの参拝客で賑わっています。



八戸市水産科学館マリエント
はちのへしすいさんかがくかんまりえんと
青森県八戸市鮫町字下松苗場14−33
Tel 0178-33-7800
 八戸市水産科学館マリエントは蕪島のすぐ近くにあります。ハイテクを使って楽しく学べる水産科学館です。展示コーナーは八戸をテーマにしていて、八戸の海やウミネコを紹介しています。
 八戸近海の魚類が泳ぐ大水槽を中心に、ウミネコシアターなどがあります。展望ホールからは八戸港を一望することができます。地球深部探査船「ちきゅう」の展示コーナーもあります。



葦毛崎
あしげざき
青森県八戸市鮫町日蔭沢
 八戸小唄でも「鮫の岬は潮けむり」と唄われる葦毛崎は、種差海岸へと遊歩道が続き、その展望台からは雄大な太平洋と海岸線が一望できます。
 葦毛崎は、幕末の頃には異国船の通行を監視するための陣屋が設けられていたそうです。太平洋戦争末期には日本軍の監視所が設けられました。
 淀の松原・奇岩怪石など遊歩道には見どころも豊富です。まわりにはハマナスの花が咲きます。鮫角灯台も打ち寄せる白い波と調和しています。



櫛引八幡宮
くしひきはちまんぐう
青森県八戸市八幡3
Tel 0178-27-3053
 南部家の祖とされる南部三郎光行は文治5年(1189)の文治の役の戦功で、陸奥の国糠部五郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)を賜りました。櫛引八幡宮は光行が家臣である津島平次郎を使わせて甲斐南部郷の八幡宮御神体を勧請したのが始まりです。建久3年(1192)十和田滝ノ沢に仮宮を営み甲斐国南部郷に祀ってあった八幡大明神を移したそうです。
 貞応元年(1222年)現在の櫛引村に移し、慶安元年(1648)社殿を完成させて、櫛引八幡宮と称しました。南部師行が社殿を再建した時以来、南部領一之宮として代々の祈願所として崇敬庇護されてきました。
 江戸時代に入り、本拠が盛岡城に移った後も、八戸藩のものにならず境内だけは盛岡藩の飛地として認められました。平成5年(1993)、本殿・旧拝殿など5棟が国の重要文化財に指定されました。
 本殿は慶安元年(1648)の造営と伝えられています。三間社流造り、銅板葺きの社殿で、壮大ながら彫刻や極彩色の文様など各所に優美さが認められます。屋根の流れの曲線は極めて美しいものです。国の重要文化財に指定されています。
櫛引八幡宮本殿
 長所、旧拝殿は以前は本殿の前にありました。今の拝殿を建築する時に門を入った左側に移築されました。舟肘木に一軒の疎垂木という簡素な造りで、桁行7間、梁間3間の入母屋造り平入銅板葺きです。国の重要文化財に指定されています。
櫛引八幡宮旧拝殿
 南門は、格式の高い形式とされる四脚門です。入母屋造り平入銅板葺きです。部材の木柄も太く、豪壮な感じです。国の重要文化財に指定されています。
櫛引八幡宮南門
 末社神明宮本殿は、櫛引八幡宮の境内に鎮座しています。元文4年(1739)に造られたとみられています。一間社流造りで、小規模ながら、構造形式はしっかりしています。国の重要文化財に指定されています。
櫛引八幡宮神明宮本殿
 末社春日社本殿は、神明宮と対称の位置に奉られている小さな社殿です。一間社流造りで、東北地方においては珍しい春日造本殿です。神明宮とともに国の重要文化財に指定されています。
櫛引八幡宮春日社本殿
 拝殿は旧拝殿を門を入った左側に移築して、旧拝殿の敷地に昭和59年(1984)11月に竣功されました。桁行15間、梁間8間の入母屋造ち平入銅板葺の社殿です。
櫛引八幡宮春日社拝殿
 国宝館には国宝の「赤糸威(あかいとおどし)鎧兜・大袖付」と「白糸威褄取(しろいとおどしつまとり)鎧兜・大袖付」のほか、いくつかの重要文化財が収蔵・展示されています。赤糸威鎧兜は鎌倉時代の金工芸術の最高品で、奈良県春日大社の「赤糸威鎧」と双璧をなすといわれています。
櫛引八幡宮国宝館
 明治記念館は八戸小学校講堂として明治14年(1882)に建てられました。明治天皇の東北御巡幸の際、行在所としても用いられました。昭和4年(1929)から八戸市図書館として使用され、昭和37年(1962)ここ櫛引八幡宮境内に移築されています。県内に現存する洋風建築では最古のものであり、県指定重宝です。
明治記念館



是川遺跡・縄文の里
これかわいせき・じょうもんのさと
青森県八戸市是川中居3−1
 是川遺跡には「縄文学習館」「是川考古館」「歴史民俗資料館」の3つの展示施設が造られています。「縄文学習館」では当時の生活の様子をジオラマで見ることができたり、また関係書籍などの閲覧もできます。
 国指定の史跡、是川遺跡の一角に建つ「是川考古館」は、「歴史民俗資料館」と渡り廊下で結ばれています。亀ヶ岡文化を代表する是川遺跡から出土した土器、1600点が、収蔵、展示されています。亀ヶ岡式土器は様々な形の器がたくさんあります。
 「歴史民俗資料館」では是川遺跡で発見された有名な出土品などがきちんと整理されて展示されています。敷地内に半地下式の縄文後期の竪穴式縄文住居が復元されています。
 縄文晩期を中心とする中居遺跡、縄文前期・中期の一王寺遺跡、縄文中期の堀田遺跡の三つの遺跡を総称して是川遺跡と呼んでいます。中居遺跡出土品633点が国の重要文化財に指定されています。



清水寺
せいすいじ
青森県八戸市是川中居18−2
Tel 0178-43-2111
 清水寺の創建はよくわかっていませんが平安時代に慈覚大師によって開かれたといわれています。八戸市内では八戸藩成立以前からあった古刹で糠部郡三十三観音霊場2番札所として広く信仰を集めています。
 境内の後方にある観音堂は天正9年(1581)に建てられた青森県最古の木造建築です。3間4面、宝形造り、茅葺きで組物や細部に禅宗様を取り入れています。
 天正9年(1581)に建立されたといわれる観音堂は中世式仏堂として東北地方北部の貴重な建造物として昭和55年(1980)に国指定重要文化財に指定されています。
 観音堂に奉納された絵馬51枚(寛文8年〜明治初期)は昭和48年(1973)に八戸市指定有形民俗文化財に指定されています。観音堂の本尊である木造天部立像は平安時代後期に制作された古仏です。



南部利康霊屋
なんぶとしやすたまや
青森県三戸郡南部町小向字正寿62−1
Tel 0179-23-3773
 南部利康霊屋のある三光寺の創建は建長6年(1254)南部家2代実光が三光国師を招き開山したのが始まりと伝えられています。その後、27代利直が宮城県松島町にある瑞巌寺の石門和尚を招き中興開山しています。
 江戸時代初期、隣りにあった同じ南部家の菩提寺、聖寿寺が盛岡へ移った事で、この地の菩提寺として三光寺が残り、霊廟や南部家縁の品々を引き継ぎました。
 三光寺の境内には国の重要文化財の南部利康霊屋や県重宝の南部利直霊屋、南部実光の墓、南部利康の後をおって殉死した八木橋藤十郎の墓などがあります。



江渡家住宅
えとうけじゅうたく
青森県三戸郡五戸町荒町17−1
Tel 0178-62-2111
 江渡家は農業を営みながら、五戸代官の下役も務め、その仕事ぶりが認められて、南部藩の御給人になったといわれています。
 江渡家住宅は、江戸後期天明年間(1781〜1788)、天明の大飢饉の飢餓救済事業として自らの住宅を再建したものです。 
 寄棟造り、茅葺き、直屋、桁行12.5間、梁間6間です。接客用の玄関や座敷があり、仏間、竿縁天井、せがい造りなど在郷武士住宅の形式をよく伝えていて、国の重要文化財に指定されています。



旧圓子家住宅
きゅうまるこけじゅうたく
青森県三戸郡五戸町倉石中市62−7
 旧圓子家住宅は、江戸時代五戸の与力、御給人などを務めた圓子氏の住宅です。往時の絵図面を参考に平成4年(1992)4月から翌年3月まで復原修理工事が行われ、150年ぶりに当時の姿に戻りました。
 玄関・座敷・ジョイ・ダイドコ廻りを中心に間取り・架構・意匠が、建築当時の様子をよく保存しています。
 玄関に切妻面を見せたT字型の屋根も青森県内には他になく、建築意匠の変容を知る上でも貴重で、青森県重宝に指定されています。



十和田市立新渡戸記念館
とわだしりつにとべきねんかん
青森県十和田市東三番町24ー1
Tel 0176-23-4430
 現在の十和田市の礎を築いた南部盛岡藩士・新渡戸傳(つとう)の偉業を紹介する記念館です。安政2年(1855)傳は不毛の原野だった三本木原の開拓に着手し、私財を投じて奥入瀬川の水を引き入れ、人が住める大地に変えました
 また、五千円札の肖像にもなった傳の孫の新渡戸稲造に関する資料、人工河川「稲生川」の上水に関わる資料、開拓に使用した道具類、新渡戸家に伝わる鎧、武具や蔵書も所蔵、展示しています。
 新渡戸記念館は、「太素塚」という塚の敷地内にあります。「太素塚」には、新渡戸傅と十次郎のお墓があります。
太素塚
 新渡戸傳は十和田市の歴史を作った人物として尊敬されています。荒れた台地に水を引く事を考え、苦労の末、十和田湖奥入瀬渓流から三本木原まで山の中を引いたのでした。
新渡戸傅像
 傳の子、新渡戸十次郎は、十和田市の町並みの土台を作り上げました。碁盤の目のように街区を計画し、京都に次ぐ日本で2番目の都市計画を実行したのでした。
新渡戸十次郎像
 新渡戸稲造は日本の「武士道」を英訳して世界に広めた人として有名です。農学博士であり、教育者でもあり、そして国際連盟の事務局次長も歴任しました。
新渡戸稲造像



旧笠石家住宅
きゅうかさいしけじゅうたく
青森県十和田市大字奥瀬字栃久保80
Tel 0176-74-2547
 旧笠石家住宅は、十和田湖から流れ出る奥入瀬川右岸の狭い台地の上に建てられています。古くから農業を営んできた笠石家の住宅で江戸時代中期の建築とみられ、国の重要文化財に指定されています。
 建物は、桁行20.8m、梁間10.3m、寄棟造り、茅葺きで、この地域の農家住宅の典型的な構造を残しています。梁などの主要構造部はチョウナ仕上げで、また土台を用いず礎石に直接柱を立てるなど、古い要素を各所にとどめた独特の建築様式です。
 内部は一種の広間型で、大きく三分され、南側から「じょい(居間)」「だいどこ(台所)」「まや」と並んでいます。各部屋とも板敷きで天井は設けず、壁面はすべて板張りになっています。



十和田市十和田湖民族資料館
とわだしとわだこみんぞくしりょうかん
青森県十和田市大字奥瀬字栃久保80
Tel 0176-74-2547
 十和田湖民俗資料館は、昭和53年(1978)にオープンしました。十和田地方で祖先から伝承されてきた生活の移り変わりを知る上で貴重な民俗資料を所蔵、公開しています。
 「旧笠石家」が国の重要文化財に指定され、公開されるのに合わせ修理、復原されました。これに機にこの民俗資料館が建築されました。
 ここでは貴重な生活用具に直接手で触れてみることもできます。



十和田湖
とわだこ
青森県十和田湖市休屋〜秋田県鹿角郡小坂町十和田湖
 神秘の湖・十和田湖は十和田八幡平国立公園にあり、東北では猪苗代湖に次いで第2の大きさをもつ湖です。アイヌ語で「トー・ワタ・ラ」つまり「岩の多い湖」が語源だそうです。
 十和田湖は十和田火山の噴火で形成された二重カルデラ湖です。最大深度327mは日本第3位で、日本の湖沼では12番目の面積を有しています。流出河川は奥入瀬川。
十和田湖周辺は、冷温帯林(ブナ林)や亜寒帯林(ダケカンバ林)が広がり、クマタカやイヌワシ、ツキノワグマなどの野生動物が生息しています。これらの生息が重要であることから、国指定十和田鳥獣保護区(大規模生息地)になっています。
 湖畔西端の桂ケ浜から「乙女の像」のある御前ケ浜までは、快適な遊歩道がつづいています。湖を眺めながら散策することができます。



乙女の像
おとめのぞう
青森県十和田市奥瀬十和田
 湖畔西端の桂ケ浜から「乙女の像」のある御前ケ浜までは、快適な遊歩道がつづいています。湖を眺めながら散策することができます。
 十和田湖のシンボル「乙女の像」は高村光太郎が昭和28年(1953)に制作した二人の裸婦像です。光太郎最後の作品でモデルは妻の智恵子だといわれています。



奥入瀬渓流
おいらせけいりゅう
青森県十和田市十和田湖畔子ノ口(ねのくち)〜焼山
 明治の紀行作家、大町桂月が「渓流の幽静、天下無比」と賞賛した奥入瀬渓流は、湖畔から焼山までの14kmを複雑に曲がりくねりながら軽やかに流れています。
 十和田湖の子ノロから流れでる奥入瀬渓流は、苔むした岩を洗い、瀬を速み、淵に淀み、途中多くの滝を通過しながら流れていきます。
 静的な十和田湖の湖水美に対し、深い自然林におおわれた奥入瀬渓流には、千変万化の水の流れが生む躍動感にあふれています。



碇ヶ関御関所
いかりがせきおんせきしょ
青森県平川市碇ケ関碇石13−1
Tel 0172-49-5020
 津軽藩祖、津軽為信が天正14年(1586)秋田比内の浅利氏を攻め大浦城に帰陣するときに関所をこの地に設けました。津軽藩の表玄関として明治4年(1871)の廃止まで威容を誇っていました。



白神山地ビジターセンター
しらかみさんち
青森県中津軽郡西目屋村大字田代字神田61?1
Tel 0172-85-2810
 ブナの里白神館の隣にある総合案内施設です。展示ホールではブナを中心に白神山地の自然を解説してくれます。映像体験ホールでは世界自然遺産の四季を紹介してくれます。



白神山地
しらかみさんち
青森県中津軽郡(なかつがるぐん)西目屋村(にしめやむら)
 青森県南西部と秋田県北西部にまたがる世界最大級のブナ原生林です。平成5年(1993)屋久島と共に日本で初めて世界遺産に登録されました。
 ブナは保水力が高く、自然のダムとして山を潤しています。ブナは森を豊かにする樹木としてなくてはならないものなのです。



暗門の滝
あんもんのたき
青森県中津軽郡西目屋村川原平
 岩木川最上流部の白神山地の深い森と谷にすっぽり包まれたところにある3つの滝が「暗門の滝」です。渓流沿いに遊歩道が設けられていて片道1時間ほどで3つの滝を歩くことができるのですが台風の後で途中から通行禁止になっていました。



権現崎
ごんげんざき
青森県北津軽郡中泊町小泊尾崎道


 小泊半島の突端にある権現崎には断崖の上と岬の北側に一つずつ灯台が建っています。津軽西海岸の荒々しい風景の中に海に浮かぶ岩木山を望める絶景の地です。
 「権現崎 徐福上陸の岬」という碑があります。除福は秦の始皇帝の命令で日本に来て、不老不死の薬を探したと伝えられています。ここでは徐福は航海の神として祀られています。近くの尾崎神社の神官尾崎氏は、徐福の後胤と伝えられ、尾崎別当として熊野大社からも重んじられていたそうです。
 徐福は 不老不死の仙薬を求めることはできなかったものの、各地で稲作、捕鯨、医療、鉄工、建築、織物、造船等の先端技術を指導して70歳で他界したそうです。



竜飛崎
たっぴざき
青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜


 竜飛崎から荒々しい津軽海峡が眼下に眺められます。強風が吹き荒れ、たくさんの風力発電の風車が回っています。岬の先端は海に落ち込んで115mの高さがあるそうです。
 北緯41度15分。津軽半島の最北端です。北海道の「白神岬」の間の「津軽海峡」は約20kmです。白亜の「竜飛崎灯台」が立ち、北海道の山並みも見えます。
 ここには石川さゆりのヒット曲「津軽海峡冬景色」の歌謡碑があります。ボタンを押すと、歌が流れ出します。竜飛崎と小泊村を結ぶ「龍泊ライン」は眺めの良い絶好のドライブコースです。



眺瞰台
ちょうかんだい
青森県北津軽郡中泊町北小泊山
 眺瞰台は龍泊ライン(国道339号線)の標高475mの地点に位置しています。海岸線沿いに約19qにわたる魅力あふれるドライブコースです。ここには六角形の展望台があります。
 眼下の龍飛崎や小泊岬、さらに、岩木山、十三湖、八甲田山の山並みや陸奥湾、北海道、大島・小島など360度の見事な景観を楽しめます。
 八甲田山から権現崎、竜飛岬に、遠く横たわる北海道の大地まで、360度の大パノラマ。さえぎるものは何一つなく実に圧巻です。



坂本台
 龍泊ラインの坂本台から南の風景です。この坂本台周辺から上り坂になってきます。




アスパム
あすぱむ
青森県青森市安方1−1−40
Tel 017-735-5311
 アスパムは青森市の観光物産館です。ピラミッドのような三角形の建物で、「青森」の頭文字である「A」をかたどっています。
 青森の自然やねぶた祭を360度のマルチスクリーンで楽しめるパノラマ館や陸奥湾や八甲田山を一望できる展望ラウンジなどの施設があります。



青森ねぶた祭り
 津軽の夏の風物詩、それが「ねぶた」です。青森市では「ねぶた」、弘前市では「ねぷた」とくべつされています。
 「ねむたい=ねぷたい(津軽方言)」そんな夏の眠気を吹き飛ばそうとしたのが「ねぶた」の始まりだといわれています。



青森ベイブリッジ
あおもりべいぶりっじ
青森県青森市安方
 青森ベイブリッジは、平成4年(1992)に完成され、青森港や旧連絡船埠頭をまたいで架けられています。橋長は1219mあり青森市で最長、青森県では1323.7mの八戸大橋に次いで2番目です。
 美しい純白の斜張橋で、橋脚やケーブルなどいたる箇所に青森の頭文字である「A」の形がかたどられています。夜になるとライトアップされて、一定時間ごとにライトの色が変化するそうです。青森のウォーターフロントのシンボルです。



青い海公園
あおいうみこうえん
青森県青森市安方
 青い海公園はかつて函館へと向かう青函連絡船が出航した青森港の桟橋でした。広い公園で波のしぶきが間近に見えるナイススポットでもあります。
 ベイブリッジの入口からアスパムの裏を通り、歩行者用のラブリッジに続く臨海公園です。夜はライトアップされたウォーターフロントを楽しむことができます。ここから青函連絡船「八甲田丸」が係留されているのが見えます。



八甲田丸
はっこうだまる
青森県青森市柳川1−4−1
 昭和63年(1988)までは函館まで青函連絡船が就航していました。青森発最終便となった青函連絡船八甲田丸をそのまま利用した日本発の鉄道連絡線ミュージアムです。
 正式には青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸という博物館です。最終便が青森駅を出発するとき、「津軽海峡冬景色」の大合唱が乗客たちから自然に沸き起こったそうです。



海の記念日発祥の地碑
うみのきねんびはっしょうのちひ
青森県青森市安方2 聖徳公園内
 明治9年(1876)、初の東北巡幸を終えた明治天皇は青森の浜町桟橋からわが国初の鉄製蒸気船「明治丸」に乗り込み、函館を経由して横浜に帰還されました。その日を記念し、「海の記念日」が昭和16年(1941)に制定されました。平成8年(1996)、この記念日は国民の祝日「海の日」になりました。天皇の訪れを記念した石碑や「海の記念日発祥の地」碑が、青い海公園の隣にある聖徳公園に建てられています。



青龍寺
せいりゅうじ
青森県青森市大字桑原字山崎45
Tel 017-726-2312
 青龍寺は青森市にある高野山の青森別院で、昭和57年(1982)に創建された新しいお寺です。
 金堂は平成4年(1992)に、五重塔は平成8年(1996)に完成したものです。39mの高さがあり、心柱は建物によってぶら下げられる形式になっています。青森の天然ヒバ材を使用しています。
 昭和59年(1984)に造立された日本一の青銅座像の大日如来像は昭和大仏とも呼ばれています。高さは奈良や鎌倉の大仏をはるかにしのぐ21.35mです。



棟方志功記念館
むなかたしこうきねんかん
青森県青森市松原2−1−2
Tel 017-777-4567
 棟方志功記念館は青森市に生まれた世界的板画家・棟方志功の文化勲章受章を記念して昭和50年(1975)にオープンしました。
 校倉造を模した鉄筋コンクリート2階建ての建物は、池泉回遊式の閑静な日本庭園と調和が取れています。
 館内には棟方が世に出るきっかけとなった「大和し美し」、代表作「釈迦十大弟子」などが収められていて、独自の境地を切り開いた棟方志功の世界に触れることができます。
 板画、倭画、油絵、書など多岐にわたる棟方作品を年4回展示替えしながら順次紹介しているそうです。板木や彫刻刀・筆などの愛用品、写真の展示、ビデオ上映なども行っています。



三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき
青森県青森市大字三内字丸山
Tel 017-766-8282
 縄文時代の巨大集落跡地です。それまでの原始的な狩猟採集民族という縄文人のイメージを大幅に変えさせました。
 平成4年(1992)から2年間かけて、県総合運動公園拡張整備計画事業に伴う野球場建設予定地内の発掘調査を行ないました。
 その結果、縄文時代前期から中期(約5500年前〜4000年前)の多くの貴重な遺跡群や多数の遺物が相次いで発見され、日本考古学史上例を見ない巨大な縄文時代集落である事が明らかになったのです。
 三内丸山遺跡は最近になって発見されたものではなく、江戸時代から知られている遺跡でした。慶応義塾大学、青森県、青森市教育委員会などによって以前から発掘調査が行なわれていたところなのです。
 大型掘立柱建物、通称「六本柱」は何のための建物なのか考古学者の議論の的になっています。祭礼に使われたものではないかと思われているようですが。



太宰治記念館 斜陽館
だざいおさむきねんかん しゃようかん
青森県五所川原市金木町朝日山412−1
Tel 0173-53-2020
 斜陽館は作家・太宰治(本名津島修治)の生家です。太宰が青森中学へ進学するまで大家族と共にここに住んでいました。大地主だった父の津島源右衛門が明治40年(1907)に建てた入母屋造りの豪邸です。
 戦後、建物は津島家が手放した後、近年まで旅館として使われていました。平成10年(1998)に太宰治記念館「斜陽館」となりました。
 また斜陽館は旧津島家住宅として登録され、国の重要文化財に指定されています。堀江佐吉の設計で堀江の四男斉藤伊三郎が大工棟梁で建築しました。総ヒバ造りで銅板ぶき屋根の大きな建物で、周りは赤レンガの厚い塀で囲まれています。
 館内は、太宰の誕生当時のままに復元し、調度なども当時の様子を再現しています。また執筆の際の膨大な資料や遺品も展示されています。



新座敷
しんざしき
青森県五所川原市金木町朝日山317−9
  Tel 0173-52-3063
 新座敷とは、大正11年(1922)、斜陽館に隣接して建てられた離れのことです。太宰治の兄の文治氏の結婚を機に建設されました。疎開時に太宰一家が暮らした家でもあります。
 この地では「春の枯葉」、「冬の花火」、「パンドラの匣」、「親友交歓」、「トカトントン」、「十五年間」、「苦悩の年鑑」など世情を諷刺した作品を書いています。



津軽三味線会館
つがるしゃみせんかいかん
青森県五所川原市金木町朝日山189−3
Tel 0173-54-1616
 津軽三味線の元祖、神原の仁太坊(にたぼう)(本名秋元仁太郎)は青森県金木町の出身です。門下の「嘉瀬の桃」「白川軍八郎」らにより、津軽三味線の基礎が築かれました。
 平成12年(2000)にオープンした津軽三味線会館は仁太坊が始めた津軽三味線の歴史や弦楽器、郷土芸能などを紹介しています。舞台演奏ができる多目的ホールでは1日4回(冬期間は3回)、生演奏があり、津軽三味線の音を聞くことができます。



立佞武多の館
たちねぷたのやかた
青森県五所川原市大町21−1
Tel 0173-38-3232
 五所川原立佞武多(ごしょがわらたちねぷた)は、五所川原市で8月4日から8日に開催される祭りです。名のごとく、高さが最大で20mにも達する巨大な山車が出されます。立佞武多の館に入ると祭りの雰囲気を味わえます。
 館内には立佞武多祭りに出陣する大型立佞武多3台を常時格納していて観覧することができます。新作立佞武多の製作体験、津軽の民工芸の製作体験、五所川原ネプタのお囃子の練習など様々なイベントが行われています。



旧平山家住宅
きゅうひらやまけじゅうたく
青森県五所川原市大字湊字千鳥144−1
Tel 0173-34-8870
 旧平山家住宅は、代々津軽藩広田組代官所の手代を務めた平山家の住居として造られた建物です。津軽地方の上層農民の貴重な建物として、主屋と表門は国の重要文化財に指定されています。
 平山家は古くからの豪農で代々庄屋を勤めました。江戸時代後期には大庄屋となり代官所の手代や堰奉行を歴任しました。
 現在の建物は明和6年(1769)に再建されたものです。木造平屋建て、寄棟造り、茅葺き、正面左側を前に張り出しその部分の屋根は切妻になっています。間口33m、奥行き13mという大きな家です。
 東より7間まで「にら」や「とろち」などの作業部、中ほどの7間が台所や寝室などの居住部、西より3間が表座敷や奥座敷などの接客部にわかれています。
 国の重要文化財に指定されている旧平山家住宅の表門です。当時、門は法度により許されていませんでした。この門は、「平山家文書」により天保元年(1830)六代平山半左衛門の時、津軽十代藩主信順公からとくに許されて、建てられたそうです。
旧平山家住宅の表門



長円寺
ちょうえんじ
青森県五所川原市飯詰字福泉224
Tel 0173-37-2658
 太伊山長円寺は、弘前の津軽藩主菩提寺長勝寺14世、聖眼雲祝大和尚を勧請して寛文7年(1667)に開山したそうです。
 長円寺にある梵鐘は正徳6年(1716)に京都三条釜座の名工・近藤丹波藤久鋳造のものです。梵鐘は高さ127Cm、口径77Cm、厚さ8Cm青銅造りです。彫刻や鐘の響きが良いことなどから昭和37年(1962)に青森県重宝に指定されています。
 長円寺と長勝寺が梵鐘を依頼し、名工は雄鐘と雌鐘の対で鋳造しました。ところが十三湖で船が沈没し、長円寺の梵鐘だけ引き上げることが出来たそうです。
 そのため、「沈鐘伝説」で有名になりました。長円寺の梵鐘を突くと「十三恋し、十三恋し」と響き、十三湖の湖底からは「長円寺恋し、長円寺恋し」と鐘の音が響くといわれています。



円覚寺 薬師堂
えんがくじ やくしどう
青森県西津軽郡深浦町深浦字浜町275
Tel 0173-74-2029
 深浦町にある円覚寺は、坂上田村麻呂創建のお寺で、青森県最古の建造物です。古くから海上交易従事者の信仰を集め、日本海海運史上の貴重な信仰資料を所蔵していることで知られています。ここには国の重要文化財に指定されている寺宝の薬師堂内厨子があります。
 薬師堂内厨子は平安時代末期に平泉の藤原基衡(もとひら)が寄進したものと伝えられていますが、構造、意匠、技法の点から室町時代前期のものと考えられます。厨子の覆堂の棟札には永正3年(1506)と記されています。
 薬師堂内厨子は白木造りの純唐様一間厨子で、屋根は入母屋造の板葺です。青森県最古の木造建造物で、細部にわたって念入りに仕上げられ、禅宗様で造られています。



岩木山神社
いわきやまじんじゃ
青森県弘前市大字百沢字寺沢27
Tel 0172-83-2135
 岩木山神社は岩木山の南東麓にある神社で「お岩木さま」「お山」などと呼ばれ、津軽国一宮です。鎌倉時代の密教道場の構造をもつ社殿には、桃山時代の精巧な彫刻が施され、「奥の日光」ともいわれています。
 現存する社殿や楼門は江戸時代初期から元禄時代にかけ、代々の津軽藩主の厚い信仰をうけ、造営、寄進されたものです。本殿、拝殿、奥門、楼門、中門が国の重要文化財に指定されています。
 岩木山神社は宝亀11年(780)に岩木山頂に祠が建てられたという古社です。平安時代になり山麓の地に社殿が建立されました。延暦19年(800)、坂上田村麻呂が東夷東征の念願成就すると社殿を再建、十腰内に里宮にあたる下居宮を建立したそうです。
 その後、十腰内から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と名乗ったのが現在の岩木山神社となっています。天正17年(1589)の岩木山噴火により岩木山神社(百沢寺)の多くの社殿や社宝、記録などが焼失してしまいました。
 楼門は、2代藩主津軽信枚の時、寛永5年(1628)下居宮の別当寺であった百沢寺の楼門として建てられたものです。5間3戸の形式、総高は17.85mという壮大なもので、弘前市の長勝寺三門と造営時期、手法が酷似しています。
岩木山神社楼門
 百沢寺の山門の時は、十一面観音や五百羅漢像など仏像を安置していましたが、現在の楼門は岩木山神社の随神門として随神像が安置されています。
岩木山神社楼門
 拝殿もまた、百沢寺の本堂として造営されました。その起工はさらに古く、慶長8年(1602)、津軽藩祖為信によって始まり、寛永17年(1640)、3代藩主津軽信義の時に完成しています。
岩木山神社拝殿
 拝殿は壮大な五間堂で、入母屋造り、とち葺型銅板葺の屋根の正面に干鳥破風が付いています。1間の向拝が付いていて、内部は密教系寺院本堂の構成が残されています。
岩木山神社拝殿
 4代藩主津軽信政の時、元禄7年(1694)に岩木山神社として造営された本殿が造営されました。三間社流造り、正面千鳥破風、軒唐破風付、銅瓦葺きです。
岩木山神社本殿
 本殿は全面黒漆塗りで、随所に金箔押しを施しています。彫刻類はすべて極彩色を用いていて、飾金具を多く使っています。正面庇柱(ひさしばしら)には昇り龍降り龍を取り付けるなど正面の景観を重視した、豪華絢爛な建物です。
岩木山神社本殿
 中門は本殿とともに4代藩主津軽信政の時、貞享3年(1686)から元禄7年(1694)までの間に建立されました。美しい四脚門で、切妻造り、とち葺形銅板葺きです。
岩木山神社中門



高照神社
たかてるじんじゃ
青森県弘前市高岡神馬野87
Tel 0172-83-2465
 高照神社は津軽を統一した藩祖津軽為信と4代藩主信政を祀っています。信政を神式で埋葬するために、遺言により5代藩主津軽信寿が、正徳元年(1711)から正徳2年にかけて建立しました。
 古くから小祠があり、津軽氏の入封以来それに対する尊崇は厚いものでした。4代藩主津軽信政は吉川神道の創始者である吉川惟足に師事して神道に造詣が深く、万治2年(1659)社殿を再建しました。
 信政は宝永7年(1710)に弘前城で亡くなり、5代藩主信寿が信政の遺言に従い廟を社殿の背後と定め吉川惟足から授けられた神号「高照霊社」をしました。その後、享保15年(1729)に高照神社と改称しました。
 高照神社には現在でも多くの建物が残されております。本殿、西軒廊、中門、東軒廊、拝殿、幣殿、随神門、廟所拝殿、廟所門、津軽信政公墓、太刀(銘友成作・平安末〜鎌倉初期)、太刀(銘真守・鎌倉時代)が国の重要文化財に指定されています。
 本殿は5代藩主津軽信寿により正徳2年(1712)に造営されました。桁行3間、梁間3間、1重、入母屋造りのこけら葺きです。正面屋根に千鳥破風を飾つけています。
高照神社本殿
 1段低く構えた1間の向拝は唐破風造向拝としています。内部は一室につくり、外廻りは丹塗、内部は朱漆塗です。国の重要文化財に指定されています。
高照神社本殿
 中門も正徳2年(1712)の建築で、1間1戸、こけら葺きの平唐門で、西軒廊を介して本殿に、東軒廊を介して幣殿に続いています。天井はなく化粧屋根裏で石敷きの床に連子窓を連ねています。国の重要文化財に指定されています。
高照神社中門
 拝殿は宝暦5年(1755)、7代藩主信寧によって造営されました。桁行7間梁間3間の入母屋造りの、こけら葺きです。外廻りは丹塗で、内部は弁柄(べんがら)塗です。国の重要文化財に指定されています。
高照神社拝殿
 正面屋根に千鳥破風を飾り、中央3間に軒唐破風を載せ、極彩色の透彫の彫物で飾り、向拝を張り出しています。7代藩主津軽信寧が造営しています。
高照神社拝殿
 幣殿は宝暦5年(1755)、7代藩主信寧によって造営されました。梁間3間、桁行2間の切妻造り、こけら葺きです。拝殿背面中央に接続しています。外廻りは丹塗で、内部は弁柄塗です。国の重要文化財に指定されています。
高照神社幣殿
 高照神社随神門は切妻造鉄板葺の八脚門です。9代藩主津軽寧親が文化7年(1810)に造営したものです。国の重要文化財に指定されています。
高照神社随神門
 九代藩主寧親が文化12年(1815)に廟所を建てました。石造の津軽信政公墓2基が前後に並び、その前面の廟所拝殿、正面の廟所門で構成され、周囲に石垣と土塁を築き、瑞垣と木柵を廻しています。国の重要文化財に指定されています。
高照神社廟所



弘前城
ひろさきじょう
青森県弘前市大字下白銀町1
Tel 0172-33-8733
 津軽統一を成し遂げた津軽為信が慶長8年(1603)に弘前城建築を計画しました。その後2代目の信枚が慶長15年(1610)から1年で築いた居城です。
 天守閣は、もともと華麗な5層の天守で本丸西南隅にありました。これが築城から16年後の寛永4年(1627)に落雷により焼失してしまいました。
 その当時の法律の「一国一城令」では5層の天守閣を禁じていたため、元のように再建はできず隅櫓を改築して今の3層の天守にしたのだそうです。
 津軽は南部氏の領地でした。元亀2年(1571)南部氏の被官だった大浦為信が南部家津軽郡代の南部高信を攻め落し、大浦城を本拠として18年かけて津軽地方を制圧したのです。姓も津軽姓に変えました。
 天正18年(1590)小田原征伐の際、津軽為信はいち早く秀吉の陣中を訪れ、津軽支配の朱印状を受け、文禄3年(1594)本拠を大浦城から堀越城に移しました。
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦では徳川家康の東軍に属して戦功をあげ、家康から津軽4万5千石を安堵され、さらに2千石加増されました。
 為信は川に囲まれた天然の要地・高岡に本拠を移すため居城建設に着手しましたが慶長12年(1607)没しました。
 後を継いだ為信の三男津軽信牧(のぶひら)が慶長15年(1610)から本格的な築城を開始し翌年この弘前城を完成させました。 
 現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓三棟、城門五棟の建造物が残されていて、いずれも重要文化財に指定されています。



藤田記念庭園・洋館
ふじたきねんていえん・ようかん
青森県弘前市上白銀町8−1
Tel 0172-37-5525
 弘前城のすぐ南に藤田記念庭園があります。日本商工会議所初代会頭であった弘前市出身の藤田謙一氏の別邸で、岩木山を借景とする庭園に、大正時代の浪漫を感じさせる洋館、書院造りの和館、元倉庫である考古館などが建っています。
 総面積が21800平方mもある庭園は、藤田氏が大正8年(1919)に別邸を構える際、東京から庭師を招いて造らせた池泉廻遊式庭園で江戸風の趣があります。
 弘前市が市制施行百周年を記念して整備し、平成3年(1991)に開園しました。平成15年(2003)、国の登録有形文化財となっています。



最勝院
さいしょういん
青森県弘前市大字銅屋町63
Tel 0172-34-1123
 金剛山光明寺最勝院の五重塔は本州最北の国の指定重要文化財五重塔として有名です。津軽藩創設以来の戦死者を、敵味方の区別なく供養するために建立されました。
 大円寺6世京海が津軽統一の過程で戦死した敵味方の者を供養するために、弘前3代藩主津軽信義の帰依を受けて明暦2年(1656)に着工しました。工事は一時中止しましたが、4代藩主信政の時の寛文7年(1667)に竣工したそうです。
 最勝院は以前は現在地より3kmほど北にあり、弘前八幡宮の別当寺でした。12か寺の塔頭寺院を持つ藩の永世祈願所で、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にありました。明治の神仏分離令により最勝院以外の11か寺は廃寺となり、それらの寺院の檀家衆を引き受けて現在地、旧大円寺跡に寺籍を移転しました。
 五重塔は寛文7年(1667)に完成した旧大円寺の塔でした。三間五層の塔で、総高は31.2mあります。屋根は宝形造銅板葺です。みちのくでは珍しい華麗でバランスの取れた優美な塔です。



長勝寺
ちょうしょうじ
青森県弘前市大字西茂森1丁目23ー8
Tel 0172-32-0813
 格式の高い大平山長勝寺は、曹洞宗のお寺で、津軽藩の祖である大浦氏の菩提寺です。享禄元年(1528)、大浦盛信が父光信の菩提を弔うため、菊仙梵寿を開山として種里(現在の西津軽郡鰺ヶ沢町種里町)に建立し、慶長15年(1610)現在地へ移ったものです。
 慶長16年(1611)弘前城を造営した津軽信政がここに禅宗三十三ケ寺を集めました。禅林街は長勝寺を正面として上寺通と下寺通からなっていて、杉並木の中、静寂に包まれています。
 三門は、寛永6年(1629)二代藩主津軽信枚により建立されました。上下層とも桁行9.7m、梁間5.8mで、棟高は16.2mです。禅宗様の手法を基本としています。
長勝寺三門
 岩木山神社楼門と同じ造りで、柱を上から下までの通し柱とする特殊な構造です。江戸時代初期の重要な建築遺構の一つです。
長勝寺三門
 三門は「三解脱門」の略で、修行の妨げになる心身の汚れである貪欲、愚痴などを脱する門と伝えられています。国の重要文化財に指定されています。
長勝寺三門
 三門を入ってすぐ右手に銅鐘があります。嘉元4年(1306)の紀年銘があることから嘉元の鐘と呼ばれています。高さ103.5Cm、径76.5Cm、厚さ8.5Cmの大きさです。
長勝寺銅鐘
 寄進者の筆頭に鎌倉幕府の執権だった北条貞時の法名があり、北条氏と津軽の関係を示す貴重な文化財となっています。国の重要文化財に指定されています。
長勝寺銅鐘
 長勝寺の庫裏は、大浦城の台所を移築したものと伝えられています。側柱と中央通りの柱を揃えて立て、各柱に登梁(のぼりばり)を架け渡し、これに小屋束を立てて和小屋を構成しています。本堂とともに国の重要文化財に指定されています。
長勝寺庫裏
 長勝寺の本堂は、8室からなる大型の本堂です。方丈形の曹洞宗本堂として全国的にも最も古い建物の様式です。平成20年(2008)大規模な修理を終えました。本堂正面の板敷廊下東半分を土間に復旧し、屋根のとち葺型銅板葺をこけら葺に戻すなど、当初の姿に復元しました。
長勝寺本堂
 津軽家霊屋(たまや)は、環月臺(初代藩主正室)・碧厳臺(二代藩主信枚)・明鏡臺(二代藩主正室)・白雲臺(三代藩主信義)・凌雪臺(六代藩主信著)の各霊屋が北から南に5棟一線に並んでいます。
津軽家霊屋
 玉垣で囲われ正面に門を置いています。5棟とも方二間、入母屋造、こけら葺で妻入です。国の重要文化財に指定されています。
津軽家霊屋



革秀寺
かくしゅうじ
青森県弘前市大字藤代1−4−1
Tel 0172-32-7460
 革秀寺は、弘前城の西約1.3km、岩木川の左岸にある曹洞宗のお寺です。創建は慶長3年(1598)、長勝寺の格翁和尚の隠居寺として開かれたのが始まりと伝えられています。 
 革秀寺は藤崎村にありましたが弘前藩初代藩主津軽為信が慶長12年(1607)亡くなると、2代藩主津軽信牧(のぶひら)が、この地に移し、為信の菩提を弔うために伽藍の整備を行いました。
 以来、歴代弘前藩主から庇護され寺領150石与えられ津軽三ヵ寺の1つとして寺運も隆盛しました。維新後は神仏分離令で衰退し、創建当時のものは本堂が残っているくらいです。
 本堂は慶長15年(1610)頃、建てられたもので木造平屋建て、入母屋造り、平入り、桁行9間、梁間8間の茅葺きです。内部の扉や欄干などの彫刻、天井の手法などは桃山風の手法を多く残しています。
革秀寺本堂
 外観は簡素ながら内部には様々な彫刻や桃山時代の手法を取り入れた津軽地方における曹洞宗寺院の古い典型を示しています。国の重要文化財に指定されています。
革秀寺本堂
 革秀寺本堂左手にある津軽為信霊屋は、江戸時代初期に建立されたものを文化年間(1804〜17)に大修理し、現在の華麗な姿にしたものです。建立当初は境内全域を聖域化し、武士の立ち入りまで厳しく制限したそうです。
津軽為信霊屋
 桁行1間、梁間1間、柱は総円柱、入母屋造り、妻入り、銅板葺きで正面軒唐破風付きの建物です。全体は極彩色で彩られ、内部には宝篋印塔と元弘前城の館神であった木造太閤秀吉座像が安置されているそうです。国の重要文化財に指定されています。
津軽為信霊屋



誓願寺
せいがんじ
青森県弘前市新町247
Tel 0172-34-5532
 誓願寺の創建は慶長元年(1596)、弘前藩初代藩主となった津軽為信が大光寺村に母親の菩提を弔うため、京都の誓願寺から岌貞上人を招いて開山したのが始まりと伝えられています。
 元和元年(1615)、弘前城築城により現在地に移され大伽藍が造営されました。その後、元禄元年(1688)、寛延元年(1748)、天保10年(1839)、明治14年(1881)と火災にあい堂宇も縮小しました。
 山門は片扉を失っただけで、当時の姿で今日に伝えられ、国の重要文化財に指定されています。京都の誓願寺山門を模したといわれ、重層、切妻造り、妻入り、こけら葺きの四脚門です。
 建物全体に彩色されていて、上層の四周板壁には十二支の動物の絵が描かれています。懸魚に鶴と亀が彫刻されていることから「鶴亀門」とも呼ばれています。



弘前八幡宮
ひろさきはちまんぐう
青森県弘前市八幡町1−1−1
Tel 0172-32-8719
 八幡社は中世、津軽郡八幡村に鎮座していました。大浦為信、後の初代弘前藩主津軽為信は霊験あらたかで度々の戦いで敵を破ったことから深く社を崇敬していました。天正18年(1590)社殿が焼失すると、再建して大浦城鬼門の鎮護神としました。。
 慶長17年(1612)2代藩主津軽信牧(のぶひら)が居城を弘前城に移した時、鬼門鎮護のため現在地に遷宮し弘前総鎮守と定めました。また最勝寺を別当寺とし、領内の寺社総取締(僧録)としました。
 明治の神仏分離令で最勝寺は大円寺跡に移転し、八幡宮の社殿の多くも破却されたそうです。この時に破壊を免れたのが本殿と、唐門です。本殿は四方に縁が回り、三間社流造で厚板葺型銅板葺の建築で国の重要文化財に指定されています。



熊野奥照神社
くまのおくてるじんじゃ
住所 青森県弘前市大字田町4丁目1−1
Tel 0172-32-7663
 熊野奥照神社は弘前城の北東にある神社で、江戸時代までは熊野宮と呼ばれていました。創建は崇神天皇67年(紀元前31年)に勧請されたのが始まりと伝えられています。
 斉明天皇4年(658)、阿部比羅天がこの神社を崇敬、 熊野三所大権現を勧請し奥尾崎に祀りました。延暦7年(788)に比羅賀洲王が扇野庄(今の弘前)に遷座し、さらに池の中島に遷座しました。延暦21年(802)に桓武天皇により社殿が再建され高岡神社と称し、3年後、陸奥国高岡熊野神社となりました。
 天正16年(1588)に津軽為信が社殿を修築、慶長15年(1610)には津軽信枚(のぶひら)が社殿を再建しました。その後、天保13年(1842)社殿は津軽順承によって修復されています。熊野奥照神社となったのは、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃された時からです。
 本殿は慶長15年(1610)に再建された時のもので三間社流造り、こけら葺き、素木造りです。向拝の組物・手鋏(たばさみ)・繋紅梁(つなぎこうりょう)・懸魚(げぎょ)などの細部に桃山時代の建築様式が取り入れられています。昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されています。
熊野奥照神社本殿



弘前東照宮
ひろさきとうしょうぐう
青森県弘前市笹森町38
Tel 0172-33-8240
 弘前東照宮は元和3年(1617)弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)が日光東照宮の分霊を弘前城内に勧請したのが始まりです。
 寛永元年(1624)に現在地に移されました。全国的に見ても早い時期に勧請できたのは、信枚の正室満天姫が家康の養女であり親藩に準ずる家柄と認められたからと伝えられています。
 本殿は寛永5年(1628)に建立されたもので桁行3間、梁間3間、1重の入母屋造りです。妻入り、向拝1間、軒唐破風付きで元はこけら葺き(現在は鉄板葺き)でした。江戸時代初期に建てられた神社本殿建築として貴重な社殿で国の重要文化財に指定されています。
弘前東照宮本殿

弘前市立観光館
青森県弘前市下白銀町2−1
Tel 0172-37-5501
 市制施行100周年を記念して平成2年(1990)建てられました。弘前公園の近くの東奥義塾高校跡地に広場とともに造られました。弘前ねぷたも飾られていました。
 弘前市とその周辺地域の観光情報の拠点となっています。総合観光案内や伝統工芸品の展示、お土産の販売、旅館・ホテルの空室情報など、旅に役立つ様々な情報を提供しています。



旧弘前市立図書館
きゅうひろさきしりつとしょかん
青森県弘前市下白銀町2−1
Tel 0172-82-1642
 旧弘前市立図書館は明治39年(1906)3月に竣工されました。斉藤主・堀江佐吉らが旧東奥義塾の敷地に建て、弘前市に寄贈したもので、当時は「日露戦捷記念弘前市立図書館」という長い名前でした。
 設計・施工は青森が生んだ代表的棟梁堀江佐吉で、木造洋風・ルネッサンス様式を基調とした八角形で三階建ての建物です。和風様式も随所に取り入れられています。
 昭和6年(1931)までは弘前市立図書館として利用されていました。図書館の移転により堀江家の子孫に払い下げられ、市内富野町に移築されていました。平成2年(1990)弘前市制100周年記念の一つとして現在地に復元したものです。
 現在、市立郷土文学館の施設として保存・一般公開されています。平成5年(1993)に青森県重宝に指定されています。



カトリック弘前教会
青森県弘前市百石町小路20
 Tel 0172-33-0175
 明治5年(1872)、パリ外国宣教会のアリヴェ神父が布教を始めた弘前カトリック教会は住宅地の中に建っています。現在の聖堂は明治43年(1910)オージェ神父が設計、横山常吉によって建てられました。
 祭壇はオランダのアムステルダムにあ る聖トマス教会から特別に譲り受け、昭和14年(1939)に持ち帰られたそうです。ベルギーの展覧会でゴシック様式のものとしては最優秀賞を受けた芸術作品だったそうです。
 施工した横山常吉は旧弘前市立図書館を造った名棟梁・堀江佐吉の弟であり、自らもクリスチャンであったそうです。この教会は青森県の重要文化財に指定されています。



日本キリスト教団 弘前教会
にほんきりすときょうだん ひろさききょうかい
青森県弘前市元寺町48
Tel 0172-32-3971
 弘前教会は、明治8年(1875)10月、「弘前公会」の名で創設された東北最古のプロテスタント教会です。パリのノートルダム大聖堂をモデルに、桜庭駒五郎が設計し、名棟梁・堀江佐吉の四男斎藤伊三郎が建設しました。
 同年6月、東奥義塾の英語教師ジョン・イングの感化によって14名の学生が洗礼を受けたことがきっかけとなり、塾長の本多廣一が初代牧師となって出発しました。弘前学院(聖愛高校)もこの教会から誕生しています。
 一部2階建ての木造平屋建て、正面は左右対称で両側が尖塔状、開口部は縦長で上部が尖塔形になっています。明治時代に建てられた数少ない洋風ゴシック式木造建築として極めて貴重な建物で、青森県重宝に指定されています。



日本聖公会 弘前昇天教会
にほんせいこうかい ひろさきしょうてんきょうかい
青森県弘前市山道町7
Tel 0172-34-6247
 日本聖公会教会はカンタベリー大主教を精神的指導者とするイギリス国教会として確立された、カトリックとプロテスタントの架け橋となる中道主義の教会です。
 日本聖公会弘前昇天教会堂は、大正10年(1921)に建てられました。設計は立教大学校校長を退任し建築家として日本各地の聖公会教会堂を設計していた米人建築家ジェームズ・ガーディナー、施工は本人もクリスチャンだった林緑といわれています。
 イギリス積みの赤レンガが特徴的な建物で、正面右寄りには鐘塔があります。煉瓦造り平屋建て、切妻、妻入りで、外壁に控え壁を設けたゴシック様式です。
 明治時代にアメリカ婦人宣教師が持ち込んだといわれるアメリカ・ショーニンガー社製のリードオルガンが現役で使用されています。聖堂は煉瓦造教会建築の遺構として青森県重宝に指定されています。



弘前学院外人宣教師館
ひろさきがくいんがいじんせんきょうしかん
青森県弘前市稔町13−1
Tel 0172-36-5224
 弘前学院外人宣教師館は米国から派遣された婦人宣教師の宿舎として、明治39年(1906)にクリスチャン棟梁の櫻庭駒五郎によって建てられました。
 南西隅に配置された八角形の尖塔や、とんがり屋根が特徴的な和洋折衷の建物で、女性を意識したつくりになっています。
 木造2階建て、寄棟、金属板葺きの建物で、縦長の上げ下げ窓、ファンライト風の半円形の欄間、煉瓦積煙突、淡黄色の下見板壁に葡萄色の柱や土台など当時の洋風建築の要素を取り入れています。
 この宣教師館は東北地方の優れた洋館として昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されました。昭和55年(1980)に弘前市中瓦ケ町から現在地に移築保存され一般公開されています。



旧制弘前高等学校外人宣教師館
きゅうせいひろさきこうとうがっこうがいじんせんきょうしかん
青森県弘前市文京町1
Tel 0172-39-3980
 旧制弘前高等学校外人宣教師館は弘前大学の前身、旧制官立弘前高校の外国人教師宿舎として、大正14年(1925)に建てられました。正面屋根に切妻面を見せ、1、2階の仕上げを変えるなど建物を印象的に見せています。
 木造2階建(一部平屋)、切妻、金属板葺きで、1階外壁は下見板張、2階はモルタル塗で仕上げられています。縦長の上げ下げ窓、印象的な棟飾り、煉瓦積の基礎、煉瓦積の煙突など当時の洋風建築です。
 弘前大学職員宿舎になり、国の登録有形文化財に指定後は弘前大学構内に移築保存されています。



青森銀行記念館
あおもりぎんこうきねんかん
青森県弘前市元長町26
Tel 0172-33-3638
 青森銀行記念館は青森県初の銀行だった第五十九銀行の本店として明治37年(1904)に建てられました。ルネッサンス風建築でありながら、防火用に日本の土蔵造りを取り入れた和洋折衷の優れた建物です。
 洋風の曲がり階段は窓を塞がないための工夫が施されていて、斜陽館の階段と似ています。天井に「金唐革紙」が使われています。当初の姿をとどめているのは、小樽の日本郵船とここだけとのことです。
 昭和18年(1943)、第五十九銀行ほか数行が合併して青森銀行が創立され、弘前支店に転用されました。昭和40年(1965)に支店新築にあたり、現在の地に移転し、弘前における明治期の文化財として永く保存することにしたものです。
 設計施工は斜陽館や旧弘前市立図書館を建てた名棟梁・堀江佐吉が設計施行したそうです。国の重要文化財に指定されています。



安寿と厨子王のモニュメント
 青森銀行記念館の横にあります。岩木山神社は「山椒太夫」の安寿と厨子王にゆかりのある地なのです。岩木山にも、安寿と厨子王の言い伝えが残っています。



旧弘前偕行社
きゅうひろさきかいこうしゃ
青森県弘前市御幸町8−10
Tel 0172-33-0588
 旧弘前偕行社は明治40年(1907)に旧陸軍第8師団の弘前新設に伴う陸軍将校の親睦と研修を目的として、集会所、社交場として建設されました。
 それ以前、藩政時代は「九十九森」と呼ばれ、文化12年(1815)には9代藩主津軽寧親の別邸が建設された景勝の地だったそうです。廃藩後は名園をもつ料亭となっていました。
 構造はルネッサンス様式で、名棟梁・堀江佐吉の手によるものです。木造平屋建て、寄棟屋根瓦葺きで、玄関ポーチには第8師団をもじった「蜂」の鉄製飾りをつけています。平成13年(2001)国の重要文化財に指定されています。
 戦後、偕行社は解散され、昭和20年(1945)より弘前女子厚生学院(現・弘前厚生学院)がここに移転して利用しました。昭和24年(1949)に大蔵省から払い下げられ同学院の所有となりました。昭和55年(1980)から弘前女子厚生学院記念館として保存されています。



旧東奥義塾外人教師館
きゅうとうおうぎじゅくがいじんきょうしかん
青森県弘前市下白銀町2−1
 青森県重宝の旧東奥義塾外人教師館は、明治36年(1903)弘前市立東奥義塾(現・東奥義塾高等学校)に招かれていた英語教師の宿舎として建設されたものです。昭和62年(1987)の同校移転時に市に寄贈され一般公開されています。
 木造2階建、寄棟、金属板葺きで、設計はメソジスト・ミッションボード、施行は名棟梁・堀江佐吉でした。同校校舎を二度にわたって設計施工した本間俊平という説もあります。縦長の上げ下げ窓や煉瓦積の基礎、煉瓦積の煙突、外壁が下見板張りなど洋風建築の要素が見られます。



弘前市立博物館
ひろさきしりつはくぶつかん
青森県弘前市大字下白銀町1ー6
Tel 0172-35-0700
 弘前市立博物館は、弘前城跡三の丸の一角に、昭和52年(1977)にオープンしました。前川國男氏の設計で、お城と老松に取り囲まれた赤レンガの現代的な建物です。
 「知と美の調和」を基調に、津軽藩・津軽地方の歴史資料および美術工芸資料を系統的・教育的に展示する常設展のほかに企画展、特別企画展があります。
 近代建築家の巨匠と知られる前川國男氏の作品なども数多く収蔵され、古津軽塗などの伝統工芸品、美術工芸品なども数多く展示しています。



山車展示館
だしてんじかん
青森県弘前市大字下白銀町2−1(追手門広場内)
 山車展示館は市立観光館の一部として、平成6年(1994)に追手門広場に建設されました。藩政時代から伝わる弘前市内各町会の山車を一堂に展示しています。
 4代藩主津軽信政の時、弘前八幡宮祭礼の神輿の露払いとして山車は使われました。館内には、弘前ねぷたまつりの時に出陣する直径4mの「津軽剛情張大太鼓」も見ることができます。



石場家住宅
いしばけじゅうたく
青森県弘前市大字亀甲町88
Tel 0172-32-1488
 石場家住宅は弘前城北門(亀甲門)の真向かいにあり、仲町伝統的建造物群保存地区に隣接しています。石場家は代々清兵衛を名のり、屋号を「丸世」といって、わら工品や荒物を扱っていた商家です。
 この住宅は規模が大きく、雪国特有のコミセがあり、大きな梁や指物を使用するなど豪壮な構えとなっています。座敷部分の造作も優秀で、津軽地方の数少ない商家の遺構として貴重なものです。
 石場家住宅は建築年代は明らかではありませんが、構造手法から見て江戸中期頃といわれています。国の重要文化財に指定されています。



旧岩田家住宅
きゅういわたけじゅうたく
青森県弘前市若党町31
Tel 0172-82-1642
 旧岩田家住宅は岩田夏城氏の遺志により昭和56年(1981)弘前市に寄付され翌年度に半解体修理工事を経て一般に公開した建物です。昭和60年(1985)に青森県重宝に指定されています。
 岩田家は代々弘前藩に仕える中級武士で石高は200石から300石を領していました。建物は寛政年間から文化年間に建てられたと推定されます。木造平屋建て、寄棟で茅葺きの屋根をはじめ柱や小屋組などの主要構造の部材はほぼ建築当初のものです。
 間口が狭く奥に細長い敷地やその利用形態まで、江戸時代から変えられていません。内部は5部屋あり床の間付きの座敷や式台付きの玄関など当時の中級武士の生活の一端を垣間見ることが出来ます。



旧伊東家住宅
きゅういとうけじゅうたく
青森県弘前市大字若党町80
Tel 0172-35-4724
 旧伊東家住宅は藩政時代、代々藩医を勤めた伊藤家の居宅として市内元寺町に建てられたものです。昭和53年(1978)弘前市が伊藤凌二氏から譲り受けました。
 同年、弘前市仲町伝統的建造物群保存地区が、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。これを受けて旧伊東家住宅は現在地に移築、復元されました。昭和55年(1980)12月から一般公開しています。
 医者の家でしたが、中級武士の居宅に良く似た構造、特徴を残しています。木造一部2階建てで、江戸時代後期の典型的な和小屋組を基本としていて、柾葺き(まさぶき)の切妻屋根です。外壁は、しっくい壁に腰部分竪板張りとなっています。
 広間と常居の上には一室となった中二階が造られています。座敷は簡素ながらも剛質な造作をした床と、違い棚を組み合わせ、藩政時代の落ち着いた住宅空間を生み出しています。平成17年(2005)青森県重宝に指定されています。



旧梅田家住宅
きゅううめだけじゅうたく
青森県弘前市若党町80
 旧梅田家住宅は旧伊東家の庭を通り抜けた奥に建っています。弘前城の南、在府町にあった武士の住宅で、昭和57年(1982)弘前市が梅田家から譲り受け、この場所に移築、復元しました。
 江戸末期の嘉永年間に建てられた津軽藩中級武士の屋敷です。茅葺き屋根をはじめ、外観・内装とも昔のまま保存されています。
 建物の建築年数や当初の住居者を推定できる墨書が調度品に残されています。社寺建築や城郭建築以外の江戸時代の建築物で、墨書が残されていた例は弘前市では今までになく、非常に貴重なものです。



蟹田
かにた
 蟹田町のむつ湾フェリー乗船所です。この町の人口は昭和40年代を境に過疎化が進み、4千人です。最盛期には7千人以上いたそうです。太宰治の中学時代の唯一の友人がこの町の人で作品の中にもこの町のことが出てくるそうです。



脇野沢
わきのさわ
 脇野沢村は、人口約3千人、まさかりの形をしている下北半島の南西、陸奥湾に面する美しい海岸線をもつ村です。国の天然記念物北限のニホンザルの生息地としても全国的に有名です。また、鱈、ヒバ工芸などの特産品があります。



恐山
おそれざん
青森県むつ市田名部宇曽利山3−2
Tel 0175-22-3825
 恐山は日本三大霊山(恐山、高野山、比叡山)、日本三大霊場(恐山、白山、立山)、日本三大霊地(恐山、立山、川原毛)の一つとして古くから信仰されてきました。寺名は恐山菩提寺(円通寺)。本尊は延命地蔵菩薩です。
 慈覚大師円仁が唐の五台山で 修行中のある夜、一人の聖者が夢枕に立ち「汝、国に帰り、東方行程30余日の所に行けば霊峰がある。そこに地蔵尊一体を刻み、その地に仏道を広めよ。」と告げ、そのお告げに従い帰国して諸国を行脚し、この恐山にたどり着き、貞観4年(862)に開山したといわれています。
 美しいエメラルドの水面をたたえた宇曽利山湖(うそりやまこ)と荒涼とした岩山の風景の中に恐山の境内があります。血の池地獄という赤い池などこの世とは思えぬ光景が広がっています。
 死者の御霊を呼び、口寄せ(口うつし)を行なうイタコがいる霊場として有名です。イタコはこの世とあの世を行き来して霊を呼び出すのです。
 48基ある常夜灯が印象的です。左側丘陵はガスの臭気が立ち込め、荒涼とした賽の河原が広がっています。卒塔婆、石積み、輪廻転生の願いを込めた風車が無数に並んでいました。




高橋家住宅
たかはしけじゅうたく
青森県黒石市中町38 こみせ通り
Tel 0172-52-5374
 高橋家住宅は中町こみせ通りに立つ江戸中期に建てられた商家の住宅です。高橋家は享保2年(1717)ここに住み着き、屋号「米屋」で黒石藩御用達になった豪商です。米、味噌、醤油、塩などの製造販売を行い、代々「理右衛門」を襲名しています。
 現在の建物は宝暦13年(1763)に建てられました。木造平屋建て(一部2階)、切妻、妻入り、金属板葺き、桁行10.9m、梁間20m、真壁造りです。
 広い土間や吊り上げ式障子窓がある典型的な商家建築です。正面道路側には黒石市の町屋に見られる「こみせ」が取り付けられ、吊上げ大戸、しとみ戸、出格子など伝統的な仕様が見られます。
 高橋家住宅は江戸時代中期に建てられた津軽地方の町屋建築を代表する建物として昭和48年(1973)に国指定重要文化財に指定されています。



鳴海家住宅
なるみけじゅうたく
青森県黒石市中町1−1
Tel 0172-52-3321
 鳴海家住宅は文化3年(1806)に創業した造り酒屋で、現在の主屋は創業時に建てられたものです。木造2階建て、切妻、妻入り、金属板葺き、桁行18間、梁間43間、正面道路側には「こみせ」が取り付けられています。
 主屋と作業場、土蔵は一体化し、店舗、座敷、居間などが片側配置され、通り土間でつながっています。江戸時代後期の町屋建築を伝える建物として黒石市指定有形文化財に指定されています。


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