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康楽館
こうらくかん
秋田県鹿角郡(かづのぐん)小坂町鉱山松の下2
Tel 0186-29-3732
 康楽館(こうらくかん)は、明治43年(1910)に小坂鉱山の娯楽施設として建てられた木造芝居小屋です。旧金毘羅大芝居や永楽館とともに、日本最古級の劇場の一つです。
 康楽館は和洋折衷の建物で、犠洋風建築の典型です。下見板張りの白塗り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾りが並んでいる洋館風の外観ですが、桟敷、花道、切穴など内部は典型的な和風芝居小屋になっています。
 いまでも常設公演のほかに、歌舞伎などが上演されています。平成14年(2002)に国の重要文化財に指定されています。



旧小坂鉱山事務所
きゅうこさかこうざんじむしょ
秋田県鹿角郡(かづのぐん)小坂町小坂鉱山字古館48−2
Tel 0186-29-5522
 旧小坂鉱山事務所は明治38年(1905)に小坂鉱山の事務所として建設され、平成9年(1997)まで現役事務所として利用されていました。平成13年(2001)小坂町の明治百年通り構想により、旧小坂鉱山病院跡地に移転復元されました。
 建設当時から明治のオフィスを代表する建造物として注目を集め、来訪する見学者も多かったそうです。バルコニー付きポーチの上部にある透かし彫りは、「藤の花」と「田」の字をデザインしています。当時「藤田組」がこの鉱山を経営していたことを物語っています。
 移転するに当たって、完成当時の状態を再現するため努力したそうです。ランプなどの室内の小物に関しても当時の設計図を元に作り直したそうです。玄関ホールのらせん階段は1階から3階まで続いていて建築的にも高く評価されています。階段の柱は、秋田杉1本を継ぎ目なしで使用しています。
 旧小坂鉱山事務所は、かつて鉱産額で全国1位にまでのぼりつめた小坂鉱山の全盛時代の生きた文化遺産です。平成14年(2002)には康楽館とともに国の重要文化財に指定されました。



小坂鉱山
こさかこうざん
秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山
 小坂鉱山は文化13年(1816)金、銀の鉱山として開発が始まりました。明治2年(1869)盛岡(南部)藩直営から官営になり、明治17年(1884)には藤田組に払い下げられました。 明治34年(1901)には銀の生産高が日本一の鉱山となりました。製錬技術が向上すると黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が主体となりました。
 山の中に労働者を集めるために、水と電気はタダにして、住居・配給・医療・衛生・体育・娯楽・文化・宗教の各施設のほか、郵便局・銀行・警察に至るまで近代的なインフラ整備を進めました。 小坂町の人口は3万人、秋田市に次ぐ県内第2の都市であったといわれたそうです。



小坂町立総合博物館・郷土館
こさかちょうりつそうごうはくぶつかん・きょうどかん
秋田県鹿角郡(かづのぐん)小坂町小坂字中前田48−1
Tel 0186-29-4726
 小坂町立総合博物館・郷土館は小坂鉱山の歴史、文化を中心に豊富な資料を展示する総合博物館です。小坂町の繁栄の基盤となった小坂鉱山の黒鉱は、約1300万年前の海底火山活動によってできました。郷土館では自然と大地の動き、鉱山と人々の暮らしなどを解説しています。
 他にも十和田湖の生い立ちから、小坂町の自然までをグラフ、写真、ジオラマなどで、ビジュアル的に紹介しています。屋外にはSL貴賓車や小坂鉄道の旅客用として使用されていたディーゼルカーを展示しています。



大館八幡神社
おおだてはちまんじんじゃ
秋田県大館市字八幡1
Tel 0186-42-1328
 大館八幡神社は慶長15年(1610)に大館城に鎮座したのが創建だといわれています。大館初代城主の小場義成は、宗家である佐竹義宣の水戸から秋田への転封の際随伴し、大館城に入場しました。そして常陸太田八幡宮の神霊を祀って、大館城の守護神としたのでした。
 佐竹義房の子である4代目大館城主佐竹義武は貞享4年(1687)大館城と大館の鎮守総社として正八幡宮、若宮八幡宮の2社を建立しました。正八幡宮は岩清水八幡宮、若宮八幡宮は鶴岡八幡宮の神霊を勧請したものです。八幡二社といわれ、佐竹家が常陸時代以来の祀り方です。
 2社とも桃山文化を継承しています。彫刻など細部が凝っていて彩色なども煌びやかなもののようです。戊辰戦争や多くの火事にも逃れ、保存状態も良く国の重要文化財に指定されています。現在はコンクリート造の鞘堂内部にあります。



北鹿ハリストス正教会聖堂
ほくろく はりすとすせいきょうかいせいどう
秋田県大館市曲田80−1
Tel 0186-42-6985
 北鹿ハリストス正教会聖堂は明治25年(1892)地元の信者によって建てられました。ロシア正教のこの教会は、「曲田の聖堂」として知られ、東京のニコライ堂を建てた大工を呼び寄せて建設したそうです。
 荘厳なビザンチン様式の聖堂で、全国的にも珍しい平屋木造りです。建材には良質な秋田杉がふんだんに使われています。建築面積が50.7平方mの小さな教会です。昭和41年(1966)に秋田県有形文化財の指定を受けています。



大太鼓の館
おおだいこのやかた
秋田県北秋田市綴子大堤道下62−1
Tel 186-63-0111
 大太鼓の館は、綴子(つづれこ)地区に伝わる世界一の大太鼓をはじめ、世界各国の太鼓も展示している「太鼓の博物館」です。隣接する「大太鼓の里・ぶっさん館」とともに「道の駅たかのす」の中にあります。
 綴子神社祭典(大太鼓まつり)で使われる直径3.71mのギネス認定世界一の大太鼓をはじめ、世界約40か国、140個の太鼓が展示されています。大太鼓が150インチ大型スクリーンに映し出され、演奏されています。



金家住宅
こんけじゅうたく
秋田県北秋田市本城字館ノ下192
 金家住宅は、昭和3年(1928)に竣工した2階建の洋館と和館が並び建ち、その後方に明治35年(1902)上棟の文庫蔵と大正2年(1913)上棟の米蔵が建っています。
 洋館は、大正期に郊外住宅や別荘建築として各地に建てられた洋風建築のスタイルで、内部は畳敷きの和式の生活様式です。また大型の和風住宅である和館は、大小の接客空間があり、細部に気を配った上質な造りをしています。 
 好対照をなす和洋両館が良く保存されていて、東北地方では数少ない大型の和洋並立住宅として貴重な建物です。洋館、和館、文庫蔵、米蔵が平成20年(2008)国の重要文化財に指定されました。



大湯ストーンサークル館
おおゆすとーんさーくるかん
秋田県鹿角市(かづのし)十和田大湯字万座45
Tel 0186-37-3822
 大湯ストーンサークル館は国の特別史跡「大湯環状列石」に隣接して建てられています。環状列石の解説や出土品の展示、縄文時代から伝わる技術を楽しみながら体験できる縄文工房などがあります。
 「大湯環状列石」は、「野中堂遺跡」と「万座遺跡」という2つの遺跡の総称で、縄文時代後期(約4千年前)の祭祀を中心とした遺跡です。環状列石は縄文時代に作られた実物を露出展示しています。
 遺跡が造られた目的は共同墓地や司祭場、日時計などの諸説があり、よくわかってはいません。石の下にはお墓とみられる穴が見つかっています。
 また、環状列石のまわりにはたくさんの貯蔵穴や柱穴などが見つかっています。遺跡からは土器や土偶、鐸型土製品などがたくさん出土しており、祈りと祭りの場であると考えられています。



なまはげ館
秋田県男鹿市北浦真山水喰沢
Tel 0185-22-5050
 なまはげ館は国の重要無形民俗文化財に指定されている「なまはげ」の歴史やミステリーについて詳しく知ることができるところで、平成11年(1999)7月にオープンしました。なまはげ伝承ホールでは、男鹿に生き続けるなまはげ行事の姿や、しきたり、伝承する人の精神を描いています。
 なまはげの語源は「ナモミをはぐ」からきているようです。いろりにあたってばかりいるとナモミ(赤い斑点)と呼ばれる低温火傷ができることがあります。それをはぎ取り、怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与えるという意味での「ナモミ剥ぎ」から「なまはげ」「アマハゲ」「ナモミハギ」などと呼ばれるようになったようです。
 なまはげの起こりは民間伝承のため、正確にはわかっていません。山伏が里に下った修験道説、農民を管理していた役人が農民達の怠惰を戒める為に鬼のような形相で各戸をまわったという説、漂着した外国人説などいろいろあります。
  また別の一説もあります。漢の武帝が5匹の鬼を連れて男鹿に上陸し、毎日鬼たちを酷使しました。ある年の正月15日に、たった1日里に降りて略奪狼藉したのを許したのが起こりという「鬼説」です。
 この5匹の鬼は山を越えた赤神神社の五社堂に祀られています。参道には鬼がひと夜のうちに造ったといわれる999段の階段が残っています。荘厳な五社堂に行ってみるとこの説が一番正しい気になりました。
 隣接する「男鹿真山伝承館」では明治時代の曲家民家の中で、古い伝統としきたりを厳粛に受け継いでいる真山地区のなまはげを体感できます。
男鹿真山伝承館



真山神社
しんざんじんじゃ
秋田県男鹿市北浦真山水喰沢97
Tel 0185-33-3033
 真山神社は、秋田杉が茂り、修行場として崇められてきた標高567mの真山の山腹にあります。創建は景行天皇年代に武内宿禰が男鹿を視察の折、湧出山(現在の真山・本山)に登り、使命達成・国土安泰・武運長久を祈願して主祭神を祀ったのが最初とされています。
 平安時代より天台宗僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤神明神と習合し、真山別当光飯寺が開かれました。南北朝時代には真言宗になり修験の霊場として栄えました。
 江戸時代には秋田12社に列せられ、藩主佐竹氏の祈願所となり数々の寄進崇敬を受けました。明治に入り廃仏毀釈によって、赤神神社から真山神社に改名しました。 昭和34年(1959)に神社所有の天然杉で現社殿が建築されました。
 200m程上ると真山神社奥宮の五社堂があります。古くは五つの社があったそうですが江戸時代に焼失し、残った一社に合祀ししています。社殿には随所に仏教建築の特徴が見られ神仏習合だった名残が見られます。五社堂は男鹿市指定文化財に指定されています。
 境内には、東西24m、南北18mに枝を広げた樹齢11100年の榧(かや)の巨木があります。真山神社は2月の第2金・土・日曜に催される「なまはげ柴灯祭」の会場となります。



真山の万体仏
しんざんのまんたいぶつ
秋田県男鹿市北浦真山字白根坂台134
 正徳4年(1714)僧・普明が真山に光飯寺金剛童子堂を建てたそうです。明治の神仏分離の際、この場所に遷座されました。この中に木彫りの小地蔵が、お堂一杯に並んでいて万体仏と呼ばれています。
 3間四方の堂舎の床下から4壁、天井に杉の木彫りの地蔵菩薩像約1万2千体が一定の方式によって整然と並べられています。万体仏は県の文化財に指定されています。



入道崎
にゅうどうざき
秋田県男鹿市北浦入道崎
Tel 0185-24-4700
 入道崎は男鹿半島北西端にあって、北緯40度線上にあります。眼下には荒々しい岩肌が続く海岸線が見えます。それと対比する広々とした芝生の丘陵部とが印象的です。
 台地の先端には入道崎灯台があり、北緯40度線上には安山岩で作られたモニュメントが配置されています。日本海に沈む夕日は絶景で「日本の夕陽百選」に選ばれています。
 入道崎の専用埠頭から、海底透視船が出ています。日本海の魚を海中から観察したり、海上から入道崎の風景を見ることができます。



入道埼灯台
にゅうどうざきとうだい
秋田県男鹿市北浦入道崎
Tel 0185-24-4700
 入道埼灯台は男鹿国定公園内にあり、「日本の夕陽百選」に選ばれた入道崎の突端に立つ大型灯台です。明治31年(1898)に建てられた灯台は、白黒対称の縞模様になっていて岬のシンボルとなっています。
 灯台は海上保安庁選定の「日本の灯台50選」に選ばれています。灯台資料展示室があり、入道埼灯台の歴史に関する資料を見ることができます。また、中から最上部まで登ることも出来ます。



カンカネ洞
かんかねどう
秋田県男鹿市戸賀加茂青砂
 カンカネ洞は西海岸に点在する洞窟のなかで最大級の大きさを誇っています。洞の中の広さはおよそ50坪、高さは7丈、海に面した方に2つの大きな窓があり、押し寄せるさざ波が、洞の中に響き、不思議な世界を作り出しています。
 カンカネ洞は加茂青砂部落はずれの浜辺にありました。岩が邪魔をして人馬が通れず、訪れる人もまれな部落でした。夜は錠前をおろして怪しい者の侵入に備えました。その錠前をカンカネと呼んでいたことから、しだいに、カンカネ洞といわれるようになったそうです。



大桟橋
だいさんきょう
秋田県男鹿市船川港小浜
 大桟橋は男鹿の荒波により、長い年月を経て大きな岩がくりぬかれたものです。昭和45年(1970)の大桟橋有料道路ができるまでは陸の孤島でした。
 信州・東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねた江戸時代後期の旅行家・博物学者の菅江真澄の絵には、むしろの帆をかけ数人の客を乗せた小さな船が、大桟橋をくぐるところが描かれています。



男鹿水族館 GAO
おがすいぞくかんがお
秋田県男鹿市戸賀塩浜字壷ケ沢93
Tel 0185-32-2221
 男鹿水族館 GAOは平成16年(2004)7月に新装オープンしました。GAOは男鹿を逆によんだ言い方ですが、Globe Aqua Oceanの略ということです。男鹿の海と秋田の自然を前面に打ち出しています。
 よく遊ぶホッキョクグマの豪太くんは何といっても一番人気です。7歳の雄ですが花嫁に14歳の釧路市動物園のクルミが来るそうです。東北地方日本海側では唯一のホッキョクグマです。
 アシカ、ペンギン、ホッキョクグマのお食事タイムには、食事の様子とアザラシの簡単なトレーニングなどが見られます。お正月と柴灯まつりの期間中、なまはげダイバーが現われるそうです。
 展示生物約400種。水中トンネルのある水量815トンの男鹿の海大水槽は迫力満点です。この水族館は「釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない」のロケ地となりました。



赤神神社五社堂
あかがみじんじゃごしゃどう
秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川35
 赤神神社五社堂は縁起によれば、貞観2年(860)慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院を創建したとされています。建保4年(1216)比叡山の山王七社を勧請して造営されましたが、うち2社が倒壊したため五社堂となったそうです。
 また、次のような伝説もあります。漢の武帝が5匹の鬼を連れて男鹿に上陸し、毎日鬼たちを酷使しました。たった1日里に降りて略奪狼藉したのを許したのがなまはげの起こりで、この5匹の鬼はこの五社堂に祀られているというのです。
 神社参道には当時、長楽寺と神仏混合していたので山門があり、「なまはげ」が一夜で作ったという999段の長い階段があります。赤神神社は本山自体を神とする信仰の山で、古来から特有の神として広く信仰されてきました。
 江戸時代には佐竹氏によって領内12社とされ社殿の建立などを寄進されています。 五社堂は宝永7年(1710)に建てられました。正面入母屋造り、背面切妻造の社殿が5棟、横一列に並びます。
 向かって右から三の宮堂、客人権現堂(まろうどごんげんどう)、赤神権現堂(中央堂)、八王子堂、十禅師堂と称します。五社堂には5匹の鬼が祀られています。向拝、屋根、柱、組み物などに珍しい工夫が見らる貴重な文化財です。
 明治以降、従来の神仏習合から神社として独立しました。平成10年(1998)から平成14年(2001)まで大修理が行われました。五社堂5棟は国の重要文化財に指定されています。赤神権現堂内にある一間厨子も国の重要文化財です。



神明社観音堂
しんめいしゃかんのんどう
秋田県潟上市(かたがみし)飯田川飯塚字中山
Tel 018-855-5120
 神明社観音堂の創建は、山平重兵衛・児玉丑松・門間吉十郎の3名が元禄2年(1689)八郎潟沖合の水底より発見した千手観音を浜飯塚観音尻に堂社を設け祀ったことに始まります。後に岡飯塚の水神端へ移し、享保19年(1734)に現在地に祀られました。
 大正14年(1925)観音堂修築の際、屋梁に白狐と鹿のミイラがあるのが発見され、千手観音像と共に安置されているそうです。
 観音堂は総ケヤキの入母屋造りで、唐破風を付けた一間社流造りです。神明造りと呼ばれる精緻を極めた棟梁の組み合わせと絢爛たる彫刻は鎌倉美術の深奥をみせてくれます。
 観音堂は昭和27年(1952)国の重要文化財に指定されています。観音堂の横には貞和3年(1347)銘の自然石板碑が4基残っています。



旧奈良家住宅
きゅうならけじゅうたく
秋田県秋田市金足小泉字上前8
Tel 018-873-5009
 旧奈良家住宅は、秋田県立博物館の別館となっている大型農家です。江戸時代中期の宝暦年間(1751〜1763)に奈良家9代喜兵衛によって3年の歳月と銀70貫を費やして建てられました。棟梁は土崎の間杉五郎八です。
 この住宅は建物の両端が前面に突き出す「両中門造り」です。正面左側が上手の中門(座敷中門)、右が下手の中門(厩中門)となっています。「両中門造り」は、秋田県と山形県庄内地方の特徴で、秋田の中でも中央部に見られます。
 桁行22.1m、梁間12.8m、寄棟造りの茅葺きです。板壁、鉋仕上げ・チョウナ仕上げによる部材などから、古風で格式のある趣が感じられます。入母屋の厩中門の屋根や、書院造り風の座敷などは豪農の構えです。
 菅江真澄はこの奈良家の上座敷に滞在し、藩主佐竹義和から、出羽六郡の地誌作成の依頼を受けました。旧奈良家住宅は、秋田県中央海岸部の貴重な大型農家建築物として、昭和40年(1965)国の重要文化財に指定されています。



三浦家住宅
みうらけじゅうたく
秋田県秋田市金足黒川字黒川178
 三浦家住宅は主屋1棟、米蔵1棟、文庫蔵1棟、表門1棟、鎮守社1棟が平成18年(2006)国の重要文化財に指定されました。土間の広さは東北最大級といわれています。平成12年(2000)保存修復工事が始まり、4年後完成しています。
 三浦家は中世の豪族三浦氏を祖とし、永禄年間には浦城城主(八郎潟町)となりました。後に金足黒川に居住し、藩政時代には肝煎を代々勤めた郷士の家柄です。
 主屋は江戸時代の文久元年(1861)に建てられたもので、茅葺で正面が入母屋風になっています。主屋の両端が前面に突き出す「両中門造り」です。馬屋と座敷を突き出しています。幕末期の農家として東北地方で最大の平面積を誇っています。
三浦家主屋
 曲がりの入母屋破風は大型で、家紋の褄飾りを揚げています。当初から「両中門造り」で建てられていました。近隣の奈良家をはじめとする、江戸時代における秋田地方大民家の発達の原点を示しています。
三浦家主屋
 文庫蔵は明治35年(1902)に建てられました。内部は欅の大梁をはじめとする良質の材料を使用しています。外部は黒漆喰塗りなど手間がかかる仕上げをしています。秋田地方の黒漆喰塗りは、面を白抜きする高度な技法で、現在、当時の技術を再現するのは極めて困難です。
三浦家文庫蔵
 軒の出の深い大きな屋根やそれを支える金具類、細部にわたって丁度に塗り上げられた大扉、特注製の三浦家の家紋が入った瓦など、他の建物に比べお金をかけています。
三浦家文庫蔵
 米蔵は明治24年(1891)に建てられました。文庫蔵は外壁の上部が黒漆喰でしたが、米蔵は素地のままの仕上げです。内部も実用本位で考えられています。内部の板壁が柱の面と同一になっていて、米俵が積み易いような工夫も見られます。
三浦家米蔵
  大きな米蔵で、昭和初期頃は、高さ6m余りまで米俵が積まれていたそうです。厚さ12Cmの板壁を柱にはさみ込み、柱と壁板を通り貫で緊結しています。秋田地方の土蔵造りの方法で、特に厚壁板や長大な牛梁などの工法、材料の豪快さが際立っています。
三浦家米蔵
 三浦家住宅の表門は主屋と同じ時の文久元年(1861)に建てられたものと考えられています。総ケヤキ造りの薬医門で、重厚な構えです。昔は「笠門」と呼ばれていました。これは秋田藩の武家階級の格式とされています。
三浦家表門
 秋田県の農家住宅でこのような門を持つのはこの三浦家住宅と大仙市の池田家住宅ぐらいで、ほとんどは木戸門と呼ばれる木柱を両脇に建てる形式です。三浦家にたいしかなりの格式が与えられていたことを伺わせます。
三浦家表門
 大正3年(1914)黒川5号井に原油が自噴しました。羽後黒川郵便局はそれを機に三浦家の一角に大正7年(1918)に開局されました。その後60年間、大切な通信機関として機能しました。初代局長は、14代三浦悦郎でした。
羽後黒川郵便局跡



千秋公園
せんしゅうこうえん
秋田県秋田市千秋公園1−1
Tel 018-832-7892
 千秋公園は、秋田市の中心にあり、秋田20万石佐竹氏の居城「久保田城」の城跡です。慶長7年(1602)常陸から国替えとなった初代秋田藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)が翌8年に築城したもので天守閣と石垣のない城でした。
 明治23年(1890)城址を秋田市が佐竹氏から借り受け公園としました。明治29年(1896)には秋田県に移管されました。造園家・長岡安平氏が設計した日本庭園として整備されました。
 長岡安平氏は東京の坂本公園も手がけていました。千秋公園の設計以降、評判になり、設計依頼が殺到したそうです。松下門跡付近に長岡氏が檜を100本献植したことを記念する碑が建っています。
 昭和28年(1953)再び秋田市に移管し、継続的に整備、管理されてきました。昭和59年(1984)15代佐竹義栄氏の意志により秋田市に寄贈され名実共に市民の公園になりました。 
 千秋公園の命名者は秋田県出身の漢学者・狩野良知(かのうりょうち)です。秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものといわれています。

 秋田市・常陸太田市姉妹都市記念に植えられた百日紅があります。春は桜の名所でもあり、色とりどりのツツジも大変評判で、秋の紅葉は格別ということです。
百日紅
 千秋公園には大賀ハスが咲いています。昭和26年(1951)3月に、故大賀一郎博士らにより、千葉県検見川の泥炭層下4.8mの青泥層から古代の丸木舟と一緒に3粒のハスの種が発見されました。米国シカゴ大学原子核研究所が2千年以上前の種と証明したそうです。
大賀ハス
 大賀博士により同年5月に奇跡的に発芽し、翌年7月に、2千年の眠りより覚めた淡紅色の花を咲かせたそうです。今ではお堀を埋め尽くす程に咲いています。
大賀ハス
 公園内には第12代秋田藩主の佐竹義堯(さたけよしたか)の像があります。奥州中村城主の相馬益胤の三男として文政8年(1825)に生まれました。近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では、新政府方に属して戦い、明治2年(1869)久保田藩知事にもなった人物です。
佐竹義堯像
 秋田神社は明治11年(1878)秋田初代藩主佐竹義宣を祀るため広小路に創建されました。その後、明治32年(1899)千秋公園に移されました。同40年、佐竹氏の氏神八幡神社と合祀して八幡秋田神社となりました。
八幡秋田神社
 平成2年(1990)4月秋田市立佐竹史料館が開館しました。佐竹氏関連の資料を展示するとともに、秋田の藩政時代 を紹介しています。千秋公園にはこの他、弥高神社や久保田城址など見所がたくさんあります。
佐竹史料館



弥高神社
いやたかじんじゃ
秋田県秋田市千秋公園1−16
Tel 018-832-4496
  彌高神社は、千秋公園の中にあり、学業向上、商売繁盛、諸願成就、縁結びの神として有名です。国学者の平田篤胤、経世家の佐藤信淵を祀っています。
 明治14年(1881)秋田市八橋に、平田神社を創建し、平田篤胤大人命(ひらたあつたねうしのみこと)をまつったのが始まりです。その後「弥高神社」になったそうです。9代藩主義和の「仰之弥高」から名付けられたようです。
 平田篤胤 は本居宣長、 賀茂真淵、荷田春満を加えて国学の四大人といわれています。古史・各宗教・易学・暦学・医学・文学・兵学・蘭学など驚くべき広範囲にわたり、しかもどれも徹底したもので呵妄書・古史正文・古史徴・霊能真柱などの著述があります。
 篤胤の思想は、封建制度に立脚する江戸幕府にとって、危険なものと見なされ、幕府から 「著述差し止め・国許退去」の命令が下され秋田へ帰されてしまいました。2年後の天保14年(1843)、自宅で68歳の生涯を閉じたそうです。



久保田城址
くぼたじょうせき
秋田県秋田市千秋公園1−1
Tel 018-832-7892
 秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門です。関ヶ原の合戦のあと、常陸国から秋田に転封された佐竹義宣は久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に慶長8年(1603)新たに城を築きました。
表門(一ノ門)
 神明山は3つの高地からなる標高40mの起伏のある台地で三森山とも呼ばれていたそうです。本丸は最も高いところを削平や土盛をして造られました。
 表門(一ノ門)は久保田城本丸の正門です。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされていて厳重な守りを固めていました。
 表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられていました。池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿がありました。
 御物頭(ものがしら)御番所が復元されています。久保田城内の二ノ門(長坂門)の開閉の管理と城下の警備、 火災の消火等を担当していた物頭足軽の組頭の詰所でした。
御物頭御番所
 市制百周年を記念して八つの御隅櫓が復原されています。土塁の上を多聞長屋と板塀で囲んで要所には御隅櫓を置いていたのです。
 北西隅には武器庫を兼ねた御隅櫓を設けました。西南隅の土塁の上には櫓座敷と呼ばれる書院風2階建ての「御出し書院」が造られました。
 佐竹義宣(よしのぶ)は義重の長男で幼名は徳寿丸と呼ばれました。伊達政宗とは母が兄弟で従兄弟にあたります。天正14年(1586)、家督を相続し、天正18年(1590)秀吉の先兵として南奥羽にて北条側の政宗と対峙しました。
  北条氏滅亡後、義宣は常陸・南奥羽・下野を得て54万石の大大名となり、政宗はその機略により命は助かるものの、会津を没収され58万石に減封されました。
 義宣は宇都宮家の所領没収に至るお家騒動で縁者としての責任を問われそうになりました。その時、石田三成のとりなしで難を逃れました。関ヶ原の合戦前、三成暗殺計画の折は、自ら三成を駕籠に乗せ騎馬で三成を守り徳川家康に釈明して窮地を救ったそうです。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは両軍に味方を約束して、あいまいな態度を取っているうちに家康方の勝利が決ってしまいました。
 慶長7年(1602)、上洛した32才の義宣は、常陸(茨城県)54万石を没収され慶長7年(1602) 秋田に転封し初代藩主になります。石高も20万石と半分以下になりましたが佐竹氏は明治まで秋田を治めました。義将の血が受け継がれたのです。



天徳寺
てんとくじ
秋田県秋田市泉三嶽根10ー1
Tel 018-868-1700
 天徳寺は秋田21万石佐竹氏の菩提寺で、境内には代々の墓と御霊屋があります。寛正3年(1462)佐竹14代義人が、夫人の天徳寺殿(源姫)を弔うために、独童を開山として常陸太田に建てました。
 慶長7年(1602)佐竹19代初代久保田藩主義宣が秋田に国替えの時、天徳寺を楢山の金照寺山の山麓に移しました。寛永元年(1624)、火災で焼失し、焼け残った総門とともに寛永5年(1628)現在の地に再建しました。
  延宝4年(1676)に、総門・山門・御霊屋を残して再び火災となり、1万石と9年の歳月をかけ、貞享4年(1687)再建されたのが、現在の本堂と奥書院です。
 江戸時代は藩主佐竹氏の寺領300石、秋田6郡の曹洞宗僧録所として隆盛しました。平成2年(1990)3月に総門、山門、本堂、奥書院、お霊屋などが国の重要文化財に指定されました。また境内全域は秋田県の史跡に指定されています。
 寺域は五庵山(ごあんざん)を背にした閑静なところで、古い石畳と両脇生い茂る松が古刹の風格を出しています。総門から本堂まで一直線上に配置され、本道左奥が御霊屋(歴代藩主墓)になっています。

 境内入口に建つ天徳寺総門は慶長年代に楢山に建てられました。延宝4年(1676)火災をまぬがれ、現在地に移築されたもので、天徳寺で最も古い建造物です。
天徳寺総門
 切妻造瓦葺きの四脚門で、国の重要文化財に指定されています。本堂から離れて建つため度重なる火災の際も焼失しませんでした。
天徳寺総門
 天徳寺山門は寛永5年(1628)に建立されました。三間一戸、瓦葺きの楼門で国の重要文化財に指定されています。
天徳寺山門
 天徳寺本堂は貞享4年(1687)再建されました。入母屋造り、茅葺き、間口約30mの大建築です。内部は左右4室、前後2列の8室に分かれ、前面に板敷きの内縁があります。建物の正面右側に玄関、背面左側に開山堂があります。
天徳寺本堂
 天徳寺御霊屋(おたまや)は本堂西側の墓域にあります。寛文12年(1672)第3代久保田藩藩主・義処(よしずみ)が祖先の霊をまつるため創建したものです。
天徳寺佐竹家御霊屋
 佐竹氏の家紋「扇に月丸」が屋根に見えます。頼朝が奥州征伐の際に月丸の扇を渡したことからこの家紋になったそうです。佐竹家霊屋は国の重要文化財に指定されています。
天徳寺佐竹家御霊屋



赤れんが郷土館
旧秋田銀行本店本館
あかれんがきょうどかん
秋田県秋田市大町3−3−21
Tel 018-864-6851
 レトロで趣のある建物が郷愁を誘う郷土資料館です。明治42年(1909)から約3年の歳月をかけて建造された旧秋田銀行本店です。現在は郷土資料館として、郷土の版画家・勝平得之の作品や伝統工芸品などを展示しています。
 1階は磁器白タイルで造られています。2階は赤煉瓦造りのルネッサンス様式です。総ケヤキ造りの貴賓室があり、大理石の階段など豪華な装飾が特徴です。
 赤れんが館の館内はかつての銀行時代の面影をよく残しています。旧書庫では銀線細工など秋田市の伝統工芸品が常設展示されています。また旧会議室には人間国宝の鍛金家、関谷四郎の記念室があります。この建物は国の重要文化財に指定されています。



秋田県立美術館
あきたけんりつびじゅつかん
秋田県秋田市千秋明徳町3番7号
Tel 018-834-3050
 秋田県立美術館は、展示室と美術ホールなどからなる美術館として、昭和42年(1967)5月に開館しました。平成24年(2012)4月に移転、オープンする予定です。
 藤田嗣治の作品を中心とした名作(財団法人平野政吉美術館所蔵)の常設展を展示室で行っています。



平野政吉美術館
秋田県秋田市千秋明徳町3ー7
Tel 018-833-5809
 世界的洋画家・藤田嗣治の作品を中心とした約600点もの平野政吉コレクションを所蔵しています。エコールドパリの一員だったレオナルドフジタこと藤田の大壁画「秋田の行事」など1930年代の藤田作品を常設展示しています。
 秋田県立美術館と同じ場所にあり収蔵する約600点の作品はすべて平野氏が収集したものです。順次入れ替えて展示しています。平成24年(2012)4月に移転、オープンする予定です。



秋田駅
あきたえき
 平成10年(1998)に開通した秋田新幹線こまちは、ミニ新幹線方式により、盛岡駅から秋田駅までを結ぶJR東日本の路線で、東京までの所要時間を大幅に短縮させました。ゆるやかなスロープは太平山の峰々や日本海の波のうねりを表しているそうです。



アトリオン
秋田市中通2−3−8
 秋田総合生活文化会館・美術館の愛称です。地下3階、地上12階の近代的なビルで、「アトリオン」とは大きな吹き抜けという意味だそうです。音楽時計の花が一時間ごとに開花するのを眺められます。美術館、音楽ホール、婦人会館、産業会館、多目的ホールなどがあります。



秋田市立千秋美術館
秋田市中通2−3−8
 秋田駅前にあるアトリオン内の都市型美術館です。佐竹曙山、小田野直武らの秋田蘭画、平福穂庵・百穂父子、寺崎廣業など、秋田ゆかりの作家の収蔵品を展示しています。



嵯峨家住宅
さがけじゅうたく
秋田県秋田市太平目長崎
Tel 018-838-2015
 嵯峨家住宅は秋田平野の東端、太平山山麓にある豪農の家です。嵯峨家はもと中世武士の出身といわれ、近世は肝煎を務めた豪農でした。藩主を迎えたという上座敷には漆喰彫刻、鏝絵(こてえ)が施されています。
 主屋南面の東西に突出部を出すいわゆる両中門造りです。玄関が正面に2箇所突き出ていて、コの字型になっています。馬の出入りや作業などで利用する「厩中門」、上級な人を出迎える「座敷中門」に分かれているのです。
 広い土間には厩(うまや)があり、床上部は広間を中心に上手に2室座敷、裏と下手に寝室などがあります。嵯峨家主屋と北米蔵は昭和48年(1973)

 嵯峨家住宅の主屋は入母屋造りの茅葺きです。桁行18.6m、梁間11m、付属する中門は桁行7.3m、梁間8.2mです。両中門造りの江戸後期の建物で国の重要文化財に指定されています。
嵯峨家主屋
 北米蔵は天保6年(1835)に建てられました。土蔵造りで、桁行6.8m、梁間4.5m、二階建、切妻造り、妻入、銅版葺きの建物です。国の重要文化財に指定されています。
嵯峨家北米蔵



旧黒澤家住宅
きゅうくろさわけじゅうたく
秋田県秋田市楢山字石塚谷地297ー99
 旧黒澤家住宅は、久保田城三の廓の東根小屋中丁(現・中通3丁目)に約300年前に建てられました。昭和60年(1985)に黒澤家から秋田市へ寄付され、昭和63年(1988)一つ森公園内に移築・保存されました。
 黒沢家は山奉行、寺社奉行などの要職を勤めた500石取りの上級武士でした。この住宅は参勤交代の道沿いの防御上重要な場所にありました。黒澤家は文政12年(1829)から住んだようです。
 長屋門形式の表門を構え、庭をへだてて奥に主屋が建ち、主屋の背後に土蔵、米蔵、木小屋などが建っています。主屋と表門は18世紀前半の建築とみられますが、附属屋は黒沢氏がこの屋敷に移ってから建てられました。
 嘉永4年(1851)建築の土蔵、天保元年(1830)建築の米蔵、万延元年(1860)建築の木小屋などがほぼ完全な形で残っています。これらのすべてが国の重要文化財に指定されています。



秋田竿燈まつり
かんとうまつり
 国の無形文化財に指定されている竿燈まつりは、真夏の病魔や邪気を払う、ねぶり流しが基になっているそうです。宝暦年間にはその原型となるものが出来ていたということです。
 ねぶり流しは、笹竹や合歓木に願い事を書いた短冊を飾り町を練り歩き、最後に川に流すものでした。それが、宝暦年間の蝋燭の普及、お盆に門前に掲げた高灯籠などが組み合わされて今の形になっていったようです。



田沢湖
たざわこ
秋田県仙北市田沢湖町
 田沢湖は神秘な碧水を湛え山あいに佇む円形をした深い湖です。十和田湖のように巨大な噴火が起こって大量のマグマが抜けた跡の窪地になったカルデラ湖ではないかとみられています。金色の湖神・たつこ像は田沢湖のシンボルになっています。
 水深は423m、日本一の深さを誇っています。そのため真冬でも湖面が凍り付くことはないそうです。深い湖水に差し込んだ太陽光は水深に応じて色が変わります。日本のバイカル湖と呼ばれています。
 かつては火山性・ミネラル分の高い水質と流入河川の少なさのため、摩周湖に迫る31mの透明度を誇っていました。しかし、発電所建設と農業振興の影響で玉川温泉から強酸性の水が入り、固有種であったクニマスは絶滅してしまいました。(山梨県の西湖で最近このクニマスの生存が確認されました。)



たつこ像
たつこぞう
秋田県仙北市西木町西明寺
 金色の湖神・たつこ像は田沢湖のシンボルになっています。永遠の若さと美貌を願い、湖神となったと伝えられる、伝説の美少女たつこ姫のブロンズ像です。その姿は澄んだ青い湖水を背にして清楚です。岩手出身の彫刻家・船越保武氏の作品です。
 昔々、湖のそばに稀れにみる美しい娘辰子がいたそうです。美しさと若さを永久に保ちたいと、観音様のお告げの通り泉の水を飲むと、見る間に大きな龍に変身してしまいました。自身に起こった報いを悟り、辰子は、田沢湖に身を沈め、そこの主として暮らすようになりました。
 辰子の母は竜に化身した娘を悲しみ、別れを告げるため松明りの燃えさしを湖面に投げ捨てました。するとその燃えさしは見る間に尾びれがつき魚になりました。これが「木の尻鱒(きのしります)」です。今では田沢湖では絶滅したクニマスの話です。龍になった辰子は、田沢湖の主となって湖底深く沈んでいるそうです。



浮木神社(漢槎宮)
うききじんじゃ(かんさぐう)
秋田県仙北市西木町西明寺
 浮木神社(漢槎宮)は田沢湖湖畔にあるたつこ像の目と鼻の先にあります。湖面に顔を出している大木の浮木(流木)を祀ったことから浮木神社という名になったそうです。
 漢学者で俳人の秋田藩土益戸滄洲(ますどそうしゅう)によって漢槎宮(かんさきゅう)と命名されました。拝殿正面には滄洲が田沢湖を遊覧した際、船頭をつとめた少年・斉藤千太郎に書き与えた扁額が掲げられています。



御座石神社
ござのいしじんじゃ
秋田県仙北市西木町西明寺潟尻
 御座石神社は田沢湖の北岸にあり湖神でもある辰子姫を祀っている神社です。御座石という社名は、慶安3年(1650)秋田藩主佐竹義隆が田沢湖を訪れたとき、腰をかけて休んだことに由来するそうです。
 本殿には龍の姿をした像が安置されています。美人祈願や縁結びに御利益があるそうです。すべてが辰子姫伝説の舞台です。昔々、田沢潟と呼ばれていた頃、稀れにみる美しい娘辰子がいました。美しさと若さを永久に保ちたいと、百日百夜の願を掛けました。
 満願の夜、大蔵観音のお告げにより、山に湧く水を飲むと、飲めば飲むほど喉が渇き、ついには龍になってしまったそうです。田沢湖に残る有名な伝説です。
 境内には下半身が龍となった辰子座像があります。朱塗りの鳥居のそばには、1本の木から7種類の木が生えた「七色木(なないろぎ)」や、たつこが飲んで龍となった「潟頭の霊泉」、たつこが姿を映した「鏡石」などの名所があります。



玉川ダム
たまがわだむ
秋田県仙北市田沢湖玉川
 玉川ダムは、秋田県にある雄物川の右支川、玉川の上流に建設された重力式コンクリートダムです。生活基盤・産業基盤を築くうえで大きな役割を担っています。ダムによって造られた人造湖は宝仙湖(ほうせんこ)と名付けられました。



草g家住宅
くさなぎけじゅうたく
秋田県仙北市生保内字下堂田18
 草g家住宅は天保2年(1831)に建てられた上層民家です。この地方独特の「南部曲り家」といわれるもので、厩と農作業の棟が、住居とL字型につながっています。
 主屋は桁行18m、梁間9.7m、寄棟造りで茅葺きです。明治時代に造られた土間は桁行13.6m、梁間7.9m、南面は入母屋造りで北面は主屋につながっています。
 農耕と交通の重要な手段としての馬を大切にした暮らしぶりがうかがわれます。仙北地域の典型とされる農家建築の1つとして国の重要文化財に指定されています。



角館
かくのだて
秋田県仙北市角館町
 黒板塀を連ねる武家屋敷街や古い商家が今も残された角館は「みちのくの小京都」と呼ばれています。元和6年(1620)芦名氏によって開かれた城下町です。30年後、断絶後、佐竹義隣(よしちか)が治めました。 
 角館のシダレザクラは明暦2年(1656)所預りとなった佐竹義隣の嫡男義明(よしはる)の妻が輿入れの際、生家の京都三条西家から持ってきたものが植え継がれたものだそうです。



武家屋敷 「石黒家」
ぶけやしき いしぐろけ
秋田県仙北市角館町表町下丁1
Tel 0187-55-1496
 石黒家の武家屋敷は青柳家の北隣にあります。藁葺き屋根の主家は、角館に現存する最も古い武家屋敷建築です。のぞき窓をつけた黒板塀がめぐっていて現存する武家屋敷の中で、最も格式が高く歴史がある屋敷です。
 石黒家は佐竹北家の藩財政勘定役を勤めた家柄で、嘉永6年(1853)に現在地へ移転しました。薬医門には文化6年(1809)の矢板があり、門を入ると起破風に懸魚のついた正玄関と脇玄関があります。
 母屋は萱葺きで庭に築山、巨岩、樹齢300年の樅の大木、東屋があり、簡素なたたずまいながら武家の格式を保っています。角館町の文化財に指定されています。
 母屋の座敷に上がることができるのはこの石黒家だけです。部屋の特徴や当時の生活様式を知ることができます。現在も住みながら、維持、保存しています。



仙北市立角館町平福記念美術館
せんぼくしりつかくのだてまち ひらふくきねんびじゅつかん
秋田県仙北市角館町表町上丁4-4
Tel 0187-54-3888
 仙北市立角館町平福記念美術館は武家屋敷通りの北側にある美術館です。角館町生まれの日本画家,、平福穂庵,百穂親子の作品をはじめ小田野直武など主に同郷に関する画家の作品を展示しています。
 美術館の敷地は秋田武家屋敷の佐竹北家家臣の屋敷跡です。前庭の太い樹木は武家屋敷当時のものがそのまま残っています。大江宏氏の設計で昭和63年(1988)にオープンしています。



角館歴史村「青柳家」
かくのだてれきしむら あおやぎけ
秋田県仙北市角館町表町下丁3
Tel 0187-54-3257
 角館歴史村「青柳家」は角館を代表する武家屋敷で、立派な薬医門が目印です。母屋は万延元年(1860)頃建てられたようで、簡素にして格式のある武家屋敷です。3千坪の敷地内には、母屋、武器庫、青柳庵、秋田郷土館、武家道具館、企画展示館などがあり、膨大な資料が展示されています。
 青柳家は芦名氏譜代の武士でしたが、芦名氏断絶後佐竹北家に仕えました。母屋や門、蔵など秋田県指定文化財になっています。「青柳庵」では、佐竹藩ゆかりの絵画や古文書、秋田蘭画などを展示しています。
 青柳家の屋敷は、広い表間口に薬医門、道沿いにめぐらせた武者窓(のぞき窓)のついた黒塗りの彫子下見塀が特徴の、格式ある造りになっています。春には日本に1本しかないという八重紅枝垂桜が咲きます。
 蔵を利用した展示室「武器蔵」には江戸時代からの文献や武具などを収蔵しています。重要文化財の秋田郷土剣などもあります。
 武具、甲冑や創製期のカメラや蓄音機など懐かしい品々も展示されています。3千坪の屋敷は植物園のように草木におおわれています。



武家屋敷 「河原田家」
ぶけやしき かわらだけ
秋田県仙北市角館町東勝楽丁9
 河原田家は石黒家と同様に芦名氏の会津時代からの譜代の家柄で、芦名氏断絶後には佐竹家に仕えました。代々木山方を勤めたそうです。薬医門の表札の下に「電話一番」の古びた札がかかっています。
 母屋は明治中期の建築ですが、藩政時代の建築をそのまま受け継いでいて、この地方の書院造りの典型的な様式が残されています。角館町の文化財に指定されています。
 閑静な緑の庭には、苔を敷いた内庭などがあり、庭園は藩政時代そのままの姿を残しています。



武家屋敷「岩橋家」
ぶけやしき いわさきけ
秋田県仙北市角館町東勝楽丁3−1
 岩橋家は石黒家などと同様に芦名家の重臣で、芦名氏断絶後、佐竹北家に仕えました。禄高は減少したようですが、屋敷の広さは同じで、上級武士の家の様式をとどめています。ここは映画「たそがれ清兵衛」の撮影場所になったことでも有名です。
 柏の木は樹齢260年以上といわれ重い歴史を感じさせます。木羽葺き、切妻型の屋敷は角館の中級武士の典型的な形を残しています。秋田県の文化財に指定されています。



角館武家屋敷資料館
かくのだてぶけやしきしりょうかん
秋田県仙北市角館町東勝楽丁9
 角館武家屋敷資料館は河原田家の米蔵を資料館に改造した資料館です。中には佐竹北家で使用された武具、甲兜、刀剣などが展示されています。
 衣服、調度品、古文書なども展示され、打掛けや化粧箱には京風の装飾が見られます。


 現役で活躍中のこの家は江戸時代の寺子屋で角館で一番古いといわれています。



角館町樺細工伝承館
かくのだてまちかばざいくでんしょうかん
秋田県仙北市角館町表町下丁10−1
Tel 0187-54-1700
 この伝承館は樺細工(かばざいく)が国の「伝統的工芸品」に指定されたのを記念して昭和53年(1978)に竣工されました。
 天然の山桜の木肌を磨いてつくる工芸品・樺細工の継承・振興をはかるための施設です。角館の古い建築様式を現代に活かした建物の中には樺細工などの工芸品の他に、角館の歴史資料も展示されています。



古四王神社
こしおう じんじゃ
秋田県大仙市大曲古四王際30
Tel 0187-63-8972
 大仙市郊外に鎮座する古四王神社は元亀元年(1570)に建てられました。昭和5年(1930)解体修理の時、「古川村大工甚兵衛」と書かれた棟札が見つかり、飛騨の工匠の作であることがわかりました。
 本殿は1間社で小さな社殿です。入母屋造りの妻入りのこけら葺きで、正面には唐破風の向拝があります。軒の出が、建物本体に比べて異常なほど出ていて、高勾配な屋根は高さを稼いでいます。
 細部の意匠は軒下の組物は和調ですが唐様、天竺様等も取り入れています。向拝にある大きな蛙股もめずらしく関東で数例しか見られないそうです。昭和25年(1950)秋田県内では最初の国の重要文化財に指定されました。



波字志別神社 神楽殿
はうしわけじんじゃ かぐらでん
秋田県横手市八沢木字宮脇
 波字志別神社は秋田県屈指の古社で、宮司大友家は1200年続く名家です。国の重要無形民俗文化財の霜月神楽を今に伝えている家系です。保呂羽山波宇志別神社は天平宝字元年(757)の開基とされ、平安時代に朝廷によって編纂された延喜式の神名式に記載されている神社(式社)です。
 神楽殿は桁行3間、梁間4間の切妻造りで、梁間2間の身舎の前後に庇を付けた両流造りになっています。東日本唯一の両流造りです。柱はすべて円柱です。
 神楽殿は平成2年から30か月の期間を掛けて、建立後はじめてとなる全解体修理を終えました。昭和55年(1980)に、国の重要文化財に指定されています。


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